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三千世界への旅 魔術/創造/変革7 ソクラテスの「魔術」2


アテネ市民が「人間」であるための条件


ヨーロッパ的民主主義の源流として、かなりイメージのいいアテネですが、市民が主権者であるというのは、なかなか大変なことだったようです。

なぜそんなに危険でピリピリした状況が生まれたんでしょうか?

王を追放して市民が主権者/運営者となった都市国家アテネでは、市民自身が兵士であり指揮官である軍によって守られ、彼らによって行政機関が運営され、彼らに選ばれた政治家が国家を主導しました。

そこでは人としてどれだけ自分を磨いて功績を挙げたか、アテネに貢献したかで市民の価値が決まります。軍事や行政や政治だけでなく、オリンピックのような競技会で活躍したり、優れた思想や芸術作品を生み出したりといったことも、彼らの存在価値を決める重要なポイントでした。

市民たちは兵士として鍛錬を欠かさず、スポーツの技を磨き、知性を磨き、進んで競技会やコンテストに出ました。有名な政治家でもオリンピックで活躍したり、優れた戯曲を書いて、演劇祭で上演され、表彰されたりする人もいました。


新しい価値観の提案と弾圧


スポーツは明快に勝者/敗者、順位が決められますが、思想や芸術は人々の評価によって決まります。自分の考えがどれだけ優れているか、正しいかを人々の前で証明することは、命を守ること以上に重要でした。

市民たちはアゴラと呼ばれる広場で自然発生的な座談会を開き、意見を戦わすことで、自分たちの思想を主張しました。文章として残すこともしましたが、公の場で語ること、思想を発表することがとても重要でした。アゴラは市民の憩いの広場ではなく、自分の意見が公開され、厳しく評価される公的空間だったのです。

ソクラテスはそこで「怪しげな論法、秘術のようなものを使ってソフィスト/知識人たちを追い詰め、思考力を麻痺させた」と、まわりからは見られたようです。彼がやりたかったのは、考えの根拠を明らかにして、考え方を評価すること、そこからもっとしい考え方を導くことでした。つまり後に哲学と呼ばれることになる行為だったわけですが、当時はそんなことをしようと考える人がいなかったので、一般には理解されなかったわけです。

プラトンなど少数の友人たちの中に理解者はいましたが、ソクラテス自身が自分を擁護できず、死刑判決を受けてしまったわけですから、彼らに弁論でソクラテスを擁護して助ける能力はありませんでした。


ソクラテスの方法論


ところで、ここまで書いてきて、またひとつ疑問が湧いてきました。ソクラテスがソフィストを相手に使ったのは、どんな論法ったんでしょうか? 

ソフィストの主張することの根拠は何かと訊いて、何か答えると、またその根拠は何かと訊き、どんどん追い詰めていって、しまいにはソフィストが答えられなくなってしまうという展開だったとよく言われます。

しかし、それでなぜソクラテスの方がソフィストより賢いということになるんでしょうか? 

ソクラテスだって答えを知らないわけですから、それではただどちらも何も知らない、わからない無知だということになるだけです。ソフィストは自分が無知だと自覚していないけど、ソクラテスは自分が無知だと知っているからその分偉いというだけでは、「それがどうした?」と言いたくなります。

自分が無知であると気づいていないやつと気づいているやつを較べれば少しましかもしれませんが、それだけでそんなに偉いんでしょうか? ソクラテスがやったことをそんなふうにとらえることに僕は若い頃から釈然としないものを感じていました。

たとえば学生時代、哲学専攻の知り合いに僕の考えを話したら、「君がそう考える根拠は何だ?」と言われ、説明したら、また「君がそう考える根拠は何だ?」と言われ、イライラしたことがありました。

彼は僕に哲学とは何かをわからせるために、ソクラテス流の問い詰め方をしているつもりだったのかもしれません。しかしそのとき僕が思ったのは、実際のソクラテスはそういう単純な問い詰め方をしていないんじゃないかということでした。


ソクラテスについての誤解


あくまでプラトンの戯曲的な作品に出てくるソクラテス像ですが、たとえば『クリトン』のような作品では、ソクラテスは友人であり弟子的な後輩である人たちと話し合い、相手の説を受け止めながら、「その考えで行くと、こういう場合はどうなる?」と、その論理の展開をサポートしながら、相手と一緒によりよい結論を出そうとしているように見えます。

『クリトン』の座談のテーマは、ソクラテスが裁判の判決を受け入れ、毒を呑んで死ぬべきか、それとも弟子・友人たちの勧めに従って国外逃亡すべきかでした。アテネの国家中枢にはこのときソクラテスに同情的な人たちもいて、国外逃亡を見逃してくれそうな状況だったといいます。

『クリトン』の座談が事実だとしたら、死刑判決が降ったソクラテスを弟子・友人たちが訪問して、逃亡するよう説得するといったことができたのも、アテネの司法当局がソクラテスの逃亡を黙認する方針だったからということなのかもしれません。

しかし、ソクラテスは逃亡を進めるクリトン他の弟子・友人たちと、判決受け入れと国外逃亡の両方を検討していき、最終的に判決を受け入れて自分は自殺すべきであると言う結論に達してしまいます。

この方法論をみると、ソフィストたちを相手にしたときも、ソクラテスは学生時代の僕を追い詰めようとした哲学青年のように、自分は何も考えようとせずにただ「根拠を示せ」と要求して、相手の弱点を突くディベートのテクニックみたいなものでソフィストたちを論破したわけではなかったんじゃないかと思えてきます。

むしろソクラテスは彼らの説の不明確なところを明確にしようと手伝おうとし、あわよくば一緒に彼らの考え方を押し進め、より優れた考えを導き出そうとしたんじゃないか。

ソフィストたちはソクラテスによって敵対的に論破されたのではなく、彼に励まされて一緒に考えていくうちに、自分の考え方は根拠が薄弱だということを彼ら自身で発見したんじゃないか。そんな気がします。


自分を外から見る


しかし、共感と信頼を共有しながら発展的な討論ができる友人・弟子たちとの座談会と違って、ソフィスト相手の討論では、そういう相互理解は成り立たなかったでしょう。

ソフィストたちはただ変な術で身動きができなくなり、論破されたと思ったかもしれません。学生時代の僕みたいにイライラし、ソクラテスに侮辱されたと感じたかもしれません。

それはたぶん自分が間違っていたことによる不安や恐怖、苛立ち、屈辱ではありません。

彼らは自分が見ていた世界の外に、自分を外から見る領域があることに初めてづいたのです。そして自分がその領域でどう考え、行動していいかわからなくなってしまったでしょう。

ソクラテスが相手を「魔術で麻痺させた、痺れさせた」と非難されたのは、たぶんそう言うことです。

ソクラテスとの対話を通じて彼らが垣間見たのは、単に自分の意識の外にある空間ではなく、彼らが暮らしていた空間、様々な考えが雑居する空間を、外から眺めることができる視座、ポジションだったと言った方がいいかもしれません。


ソクラテスを告発した人たち


新しいポジションに連れて行かれたソフィストたちは、目から鱗が落ちるような経験をさせてもらったと喜んでもよさそうなものですが、ソクラテスが裁判にかけられたところをみると、おそらくそうではなかったのでしょう。

柄谷行人の『哲学の誕生』によると、当時のアテネで活動していたソフィストたちは、アテネ出身ではなく、他のギリシャ国家・地域出身者だったそうです。

よそ者である彼らに、アテネ市民であるソクラテスをアテネで告発する権利があったのかどうか、考えてみるとちょっと疑問ですが、もしかしたら彼らソフィストたちはアテネ市民に熱心なファンがたくさんいて、彼らがソクラテスを告発したのかもしれません。

彼らはアゴラで行われたソクラテスとソフィストの問答に立ち会っていたでしょう。ソクラテスに追い詰められて言葉が出なくなってしまうソフィストを見て、彼らは自分が侮辱されたように感じたかもしれません。

彼らはソフィストの言うことをそのまま受け入れ、ありがたがっていた人たちで賞から、ソクラテスに追い詰められたソフィスト以上に、ソクラテスのことを「怪しい魔術を使って人をしびれさせてしまう」魔術の使い手と感じたでしょう。

とすると、ソクラテスを「異端の神を信じて人を惑わせた」罪で告発したのは、ソフィストのファンであるアテネ市民たちだったと考えることができるのではないでしょうか。


古代世界の思想革命


しかし、こうしてソクラテスの方法を見てくると、そもそも彼がソフィストたちをやり込めたという捉え方自体に、すでに誤解があるように思えてきます。

ソフィストたちは、多神教の世界にたくさんの神々がいるように、色々な論理が混在する世界の中に生きていたでしょう。おそらくそれが当時のギリシャ人の世界でした。

いろんな考えが雑居状態で存在していて、論戦で勝ったり負けたりするのは、古代世界で色々な国が戦争で勝ったり負けたりしていたのに似ています。

そんな時代に現れたソクラテスは、抽象的な概念や思考をもっと明快で根拠のあるものにしようとした最初の知識人だったんでしょう。つまり、ソクラテスが彼らを連れて行こうとしたのは、雑多な価値観が雑然と混在することを許さない世界でした。

またまた長くなってきたので、続きはまた次回。

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