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三千世界への旅 魔術/創造/変革54  ハイデガーとナチスとハンナ・アレント1

ナチ党員ハイデガー


ナチ党員だったハイデガーは1945年、ナチス・ドイツが敗北すると、連合国側から告発されました。

中山元の『ハンナ・アレント〈世界への愛〉』(松浦俊輔訳 青土社刊)によると、彼の家はナチス党員の住居として半ば接収され、ドイツからナチスの影響力を一掃するために設立された浄化委員会に喚問され、厳しい追及を受けたとのことです。

尋問に対してハイデガーはナチスに加担した理由を、「共産主義の侵攻を食い止める唯一の、そして最後の可能性が、ナチズムへの支援にある、とみていた」からであり、フライブルグの学長を引き受けたのは「もっぱら大学の利益のみを考えて」のことだった、そして敗戦までその職に留まり続けたのは「いっそう憂慮すべき事態を阻止するため」だったと弁解しています。そして、「講義のなかで、とりわけニーチェについてのゼミナールのなかで明確な{ナチズムへの}批判を行った」と自分を擁護しています。(『ハンナ・アレント〈世界への愛〉』P.383)

明確な批判がなぜナチスに摘発されなかったのかは不思議ですが、難解すぎてナチスの中に読もうとする人間がいなかったか、読んでもよくわからなかったのかもしれません。

いずれにしても僕が『ニーチェ』を読んだかぎりでは、純粋な哲学の領域ですべてが語られているだけで、直接的に、明確にナチスを批判してはいないように思えます。


ニーチェ批判とナチス批判


『ハンナ・アレント〈世界への愛〉』によると、ハイデガーは『ニーチェ』の第一巻では「意志」や「超人」を肯定的にとらえていたのに、第二巻になると否定的にとらえ、ニーチェを批判・攻撃しているそうです。

この「転回」はアレントによって指摘されていますが、もしかしたらハイデガーは第二次世界大戦末期になってナチスドイツの敗北が予見されるようになったことで論調を変え、ニーチェの批判を通じてナチスを批判し、倫理的な責任を果たしたつもりでいたのかもしれません。

しかし、ナチス側が問題化しなかった、あるいは気づかなかったことを考えると、この批判はたいした意味を持たなかったと言えるでしょう。

ハイデガーは、ニーチェに関する彼の講義を聴けば、あるいは『ニーチェ』を読めば、自分が何を言いたいのかわかるはずだと考えたのかもしれませんが、僕みたいな素人には今でもわかりませんから、たぶん当時も哲学者でなければわからなかったでしょう。

つまり哲学の難解な講義や本でナチス批判を表明したんだから、公的な責任は果たしたというのは、哲学者を特権化して、それ以外の人間を見下す不遜な言い訳です。

ヤスパースのハイデガー告発


連合国側の審問とは別に、フライブルグ大学もハイデガーを告発し、追放処分を下そうと、彼がナチス政権下でしたことを洗い出していました。

ハイデガーは在任中、色々と反ユダヤ主義的な行動を取ったとされていますが、中でも問題視されたのは、哲学の先輩であり、恩人でもある現象学の大家フッサールがユダヤ人であるという理由で大学から追放されたとき、学長としてこれを許可したことでした。

浄化委員会による追及では、大学の同僚たちが証言を行いましたが、ハイデガーは実存主義哲学の仲間であるヤスパースが自分を弁護してくれることことに期待して、ヤスパースの意見を聞くよう委員会に要請しました。

ところがヤスパースは、ハイデガーが学長として大学のスタッフの採用に人種差別的な圧力をかけたことなどに言及したほか、ハイデガーの哲学者としての姿勢にも厳しい評価を下しました。

「ハイデガーはきわめて有能な人間ですが、それは彼の哲学的世界観の内実によってではなく、思弁的な道具の操作においてなのです。私見では、彼は驚くほど無批判的であり、本来の学問からは遠いところにいるにもかかわらず、興味深い知覚能力を有する哲学的な器官のようなものが彼にはあります。彼はときおり、まるでニヒリズムの峻厳さが魔法使いの秘法伝授と結びついているかのような印象を与えます。彼は折に触れて彼なりの言葉遣いにおいて、哲学的思索の急所を、人知れぬ素晴らしい仕方でつくことができるのです。この点で、彼はドイツの同時代の哲学者のなかでは、私の見るかぎり、唯一の人物でしょう」(『ハンナ・アレント〈世界への愛〉』P.384)とヤスパースは述べています。


ハイデガーの魔術


こうした批判的な証言もあって、ハイデガーはフライブルグ大学から「講義の権利を放棄した上での退官」を求められ、最終的には「教育活動の禁止と大学でのすべての職務の打ち切り」、つまり学界・教育界からの追放という処分を受けました。

しかし、僕にとって興味深いのは、こうしたナチスに加担したことによる処分より、ハイデガーがただの哲学者ではなく、魔法使いの秘法的な技を使う、特殊な哲学者だったということです。「哲学的思索の急所を、人知れぬ素晴らしい仕方でつくことができる」という彼の技は、まさにニーチェが使った技でもあります。

ハイデガーはこの魔術的な言葉の技によって、他の哲学者たちが触れることができない人間の非理性的な部分を揺り動かしたと言えるでしょう。その意味でハイデガーは哲学者であると同時に、ナチスと親和性のある思想家であると見ることもできます。


ハンナ・アレントとハイデガーの恋


『人間の条件』『革命について』などで知られる政治哲学者ハンナ・アレントは、20世紀のナチズムや全体主義を批判的に分析した思想家ですが、大学時代はハイデガーの教え子であり、彼と不倫関係にあった人でもあります。

中山元の『ハンナ・アレント〈世界への愛〉』によると、ドイツの同化ユダヤ人つまりユダヤ教にこだわらず、実業家や銀行家、学者、芸術家などとして活躍する裕福なユダヤ人の家庭に生まれたアレントは、フライブルク大学で哲学を学び、指導教官だったハイデガーから強い影響を受けました。

アレントとハイデガーが恋愛関係にあったのはこのときのことのようです。(ウィキペディアではマールブルク大学となっていますが、ここでは一応中山の本にしたがってフライブルク大学でとしておきます)

しかし、その後フッサールやヤスパースの指導も受けていますし、2度目の結婚相手が共産主義者だったことや、ナチス政権下で迫害されるユダヤ人の支援活動を経験したことで、政治哲学の分野に踏み込んでいったとのことなので、とりわけハイデガーの影響だけに注目する必要はないようにも思えます。

第二次世界大戦が始まると、アレント自身も危険を避けるため、フランス経由でアメリカに亡命し、以後アメリカの思想家として活躍するようになります。

第二次大戦後の1950年、彼女は「ユダヤ文化再建委員会の執行委員として、ナチスに強奪されたユダヤ文化財のリストを作成する仕事」のため、フライブルグにやってきました。

しかし彼女はナチスから逃れてアメリカに亡命したユダヤ人であり、連合国側の人ですから、大学からナチス側の人間として追放されたハイデガーとは接点はありません。

親交が続いていたヤスパースからハイデガーの手紙を読ませてもらったときも、夫への手紙で「ヤスパースが読ませてくれたハイデガーの所感は、いつもどおりでした。本心を語るかと思うと嘘をつく、というよりも臆病さが顔をだす。嘘と臆病が支配的なのです。ヤスパースに会って、ハイデガーにどうしても会いたいという気持はなくなりました」と語っています。(『ハンナ・アレント〈世界への愛〉』P.387)


戦後の再会と文通の再開


ところが、フライブルグで彼女はハイデガーに手紙を送り、ホテルに訪ねてきた彼と再会しています。そしてその日のうちにハイデガー家を訪問したようです。

ハイデガーはこの再会にあたって、妻に学生時代のアレントと不倫関係にあったことを告白したといいます。妻としてみれば夫のかつての不倫相手を家に招くのは腹立たしかったでしょうが、ハイデガーとしては「彼女が著名なユダヤ人であり、それゆえ彼女の支援は反ユダヤ主義者ハイデガーという執拗な糾弾を中和するのに役立つ」ことを期待していて、妻にもそう説得したようです。

そこからハイデガーとアレントは文通を再開し、ハイデガーは恋愛関係にあった時代に戻ったかのように彼女に詩や親密な感じの手紙を送ったとのことです。しかし、1952年になると、ハイデガーの方から「今は手紙をくれない方がいいし、立ち寄ることもしない方がいい」と書き送り、交流はストップしたようです。

ハイデガーの妻がいい顔をしなかったのかもしれませんし、元ナチスの哲学者と、その教え子で今や思想界の世界的スターであるアレントが、こっそりよりを戻しているみたいに世間から見られたらまずいと、ハイデガー自身が考えたのかもしれません。

それでもアレントは当時、ハイデガーの著作の翻訳出版に尽力していて、仕事に関する連絡を手紙でしたりしていました。(『ハンナ・アレント〈世界への愛〉』P.388)


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