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三千世界への旅 魔術/創造/変革3 鬱屈の力学 

イタリア・ルネサンスの空白


フランセス・イェイツの『魔術的ルネサンス』を最初に読んだとき、疑問に思ったことのひとつは、ルネサンス期の神秘主義を扱っているわりに、ルネサンスの源流となったイタリアの芸術家たちがあまり出てこないことでした。

語られているのは、芸術家たちのパトロンになったメディチ家に、ピコ・デラ・ミランドラのような神秘主義思想家が大きな影響を与えたといったことで、ボティチェリやダビンチ、ミケランジェロがどんなふうに神秘主義に影響を受けて、どんな作品にそれが表れているかといったことは出てきません。

イェイツはイギリスの研究者で、エリザベス朝時代の神秘主義が専門ですから、本の大半がイギリスについて書かれていて、イタリア・ルネサンスの芸術と神秘主義の関係があまり詳しく書かれていないのはやむを得ないのかもしれませんが、僕みたいな一般的な読者にとって、この本に説得力がいまいち感じられない理由のひとつになっています。


デューラーのメランコリア


この本に、魔術・神秘主義を表現した芸術家としてまず登場するのは、当時の神聖ローマ帝国、現在で言うところのドイツの画家、アルブレヒト・デューラーです。デューラーはダビンチのほぼ同時代人です。彼の版画の代表作『メランコリアⅠ』には、当時の神秘主義の思想家アグリッパの著作『オカルト哲学について』の理論が具体的に表現されているとイェイツは語っています。

メランコリアは普通「憂鬱」と訳されますが、変化や創造を志向する力を内に溜め込んで、それを表出することができず鬱屈している状態をさすようです。

デューラーの『メランコリアⅠ』には、怒った顔で頬杖をつき、コンパスを持った女性が描かれています。彼女のまわりには工具や天秤計り、ボールなどがあり、これらはすべて彼女が当時の魔術的科学で土星の影響を受けるとされる黒胆汁質の人であり、正しい魔術を用いることで、鬱屈を創造のエネルギーに変えることができることを表しているとのことです。


不機嫌な顔


そういえばデューラーが描く人物は大体怒ったような、何かを内側に溜め込んでいるような顔をしていて、これが彼の画風なのかもしれませんが、少し後の世代に属するミケランジェロの作風に通じるところがあるようにも思えます。彼らの作品は荘厳ではあるけれども、中世のキリスト教会の威厳を表すための荘厳さではなく、その源泉は自分たちの自由な行動や表現を制限する、カトリック教会の戒律や社会通念に対する人間的な怒りであるように思えます。

ミケランジェロは若い頃からバチカンの依頼で彫刻を彫り、ローマ教皇の指名でシスティナ礼拝堂の天井に「天地創造」を描いていますが、フィレンツェにメディチ家の支配に反対する共和派政権が誕生したときは共和派についています。当時ローマ教皇を輩出し、バチカンと一体化していたメディチ家は教皇領軍によってフィレンツェを陥落させます。ミケランジェロは罪に問われるところを助けられ、バチカンに呼ばれてシスティナ礼拝堂の祭壇画「最後の晩餐」を描くことを強いられました。彼の鬱屈は権力に屈服して制作を強要される芸術家の、体験的・具体的な怒りをはらんでいるようにも思えます。


プロテスタント的精神


一方、デューラーはマルチン・ルターの思想に感銘を受け、生まれたばかりのプロテスタントに改宗していますから、やはりカトリック教会に不満を持ち、鬱屈した精神を抱えて生きた人だったのでしょう。プロテスタントと神秘主義は一見相容れないように思えますが、当時のヨーロッパ社会を支配していたカトリックの考え方に対する反抗という意味では、共通するものがあったのです。

やはりプロテスタントの国であるオランダでも、デューラーより百年くらい後の世代に属するレンブラントが、霊感を受けた科学者をエッチング「科学者」に描いています。デューラーの「メランコリアⅠ」のように科学を象徴する器具がたくさん描かれてはいませんが、計測器具らしきものがひとつ前面に大きく描かれています。科学者は鬱屈した怒り顔を見せてはいませんが、奥の窓の下あたりには霊感を象徴する光がほとばしっています。

科学と経済によって急速に発展した当時のヨーロッパの先進国オランダでは、神秘主義の魔法は科学者の霊感に置き換えられて、霊的な力を存続させているとみることができるでしょう。カトリックの支配から解放された地域/時代には、創造の力はオカルト的魔法のかたちをとらなくてもすむようになり、人に直接降ってくる個人的な霊感としてとらえられるようになったということなんでしょう。


キリスト教の聖霊


霊は元々キリスト教にとって不可欠の存在でした。天に神がいて、地上に神の子である救世主キリストが派遣されたわけですが、信徒たちは天からやってきた精霊が自分たちに宿ることで、神/キリストと一体化します。

カトリックが正当なキリスト教とされるようになる前、初期のキリスト教においてはこの神秘的な密議が行われていました。

カトリックでは精霊はそれほど露骨に降ってきたり、神秘的な体験をもたらしたりはしませんが、それでも父である神と子であるキリストと精霊は三位一体とされ、ミサを通じてカトリック教徒たちは霊との一体感とそれなりの恍惚を味わいます。

つまり当時の支配者であるカトリック教会でも、霊、神秘的な術はそれなりに生きていましたし、今も生きています。今はあまり目立ちませんが、悪霊を呪文によって退治するのは、カトリック教会の聖職者の役割でしたし、たぶん今もそうなんでしょう。


プロテスタント的魔術


それではカトリックに反発して生まれたプロテスタントが科学的だったかというと、そうとも言えません。最近読み始めたカート・アンダーセンの『ファンタジーランド』という本には、プロテスタントがいかに空想好きで非理性的かということが書かれています。この本によると、プロテスタントは創始者であるルターの時代から、カトリック教会の権威を否定しましたが、その分聖書を絶対視しました。プロテスタントの原理主義者たちは、そこに書かれていることを一言一句信じます。

プロテスタント原理主義の一派である清教徒たちは、自分たちの純粋な教義を実行できる理想郷を建設するため、モーセの時代のユダヤ人のように約束の土地を求め、堕落した教会が支配するイギリスを捨て、まずオランダへ、さらに新大陸アメリカへ移住します。彼らを突き動かしていたのは、科学や経済を志向する理性的・合理的な精神というよりも、神秘的な理想を実現するために未知の土地へ移住し、理想を実現しようとする非理性的な意欲、熱意でした。


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