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三千世界への旅 魔術/創造/変革32 近代の魔術10 経済の魔術つづき

経済という魔術の作用


19世紀後半には、こうした苦しい生活を強いられていた労働者が団結しだしました。労働組合を結成して待遇改善を要求したり、交渉がうまくいかなければストライキをやったりするようになっていきました。社会党や社会民主党、労働党といった革新政党が選挙で当選者を出し、議会で勢力を拡大していきます。こうして労働者側の要求が少しずつ認められ、待遇は改善されていきました。

しかし、こうした一般常識に属する歴史の表面をなぞるだけでは見えてこないものがあります。それは近代の経済が人間や社会にとってどのような仕組みなのか、人と社会をどう支配し、どう変えたのかということです。

都市で産業革命が起きて農村から大量に人が流入して労働者になり、これまで見てきたような事情で、大きな流れとしては経済が急成長しているのに、労働者がひどい生活をするようになるといった変化の裏では、これまで見てきたような古い支配体制だけでなく、近代経済の新しい仕組みが働いていました。それは魔術的とも言えるものでした。

この魔術のおかげで近代の国家や巨大資本・企業は、法律的にも倫理的にも正当性を保証されて、人や社会を支配することができるようになりました。経済が発達して国や社会が豊かになっていくと同時に、「無産階級」とか「労働者階級」と呼ばれる多くの貧民が現れても、国や資本や企業がその責任を問われることはありませんでした。それはこの仕組みが新しいものだったからです。


人が商品になるということ


この魔術の核心は人が商品になったことにあります。農村から都市に出て、企業に雇用されたとき、農民は自分を労働力という商品として企業に売ることになります。

商品の値段は給料の額です。このお金と引き換えに、彼は決められた時間に決められた作業をすることになります。

今から見れば当たり前のことかもしれませんが、農民としての生活しか知らない彼にとって、これは一種魔術的なことでした。

農村で暮らしていたときの農民は、先祖代々その土地で農業を営みながら暮らしていました。彼らの上には領主がいて、彼らを支配し、外敵から彼らを守ると同時に、彼らから一定量の作物を徴収していました。ヨーロッパで言うと、領主は古代までさかのぼれば、古代ローマの貴族や大地主だったのかもしれません。やがてそれがゲルマン人に変わったかもしれません。

その土地で暮らしてきたということから見れば、農民の方が前からそこに暮らしていたわけですから、土地に対する権利も彼らにありそうなものですが、古代とか中世は武力が土地や農業の基盤ですから、土地の支配死者/所有者は領主であって、農民ではありません。

だから、近世・近代になって毛織物産業が成長し出すと、畑を牧場に変えて羊を飼う領主が出てきて、土地を追い出される農民が増えたりしたわけです。

農民は領主に服従しなければならない立場ですから、奴隷 slaveとは言えないまでも、古い時代の使用人servant のような存在だったといえるかもしれません。

しかし、こうした身分制度の下でも、農民は天候不順による凶作がなければ、それなりに作物を育て、そこからかなりの部分を領主に税として徴収されても、それなりに食べていくことはできたし、お祭りで飲んだり騒いだりすることもできました。


商品の価値と交換の魔術


こうした生活をしていた農民は、自分が商品として値付けされるということはありませんでした。先祖代々生きてきた土地で、同じような農作業をして、作物を収穫するだけです。領主に徴収される分の作物の量が領主にとって、その土地と農民の価値であるといった数字的な捉え方もしていなかったでしょう。

農民にとって商品とはモノです。彼らは定期的に近くの村や町で開かれる市場で、農作物を必要な道具やハム・ソーセージ、チーズなどの保存食と交換するといったかたちで、商品と関わってきました。

モノの交換や、交換にお金を介在させる売買などは価値の交換です。この価値の交換、商取引という行為は、昔の人にとって一種いかがわしさのつきまとう行為でした。

交換することによって、自分が持っているモノが他のモノに置き換わるわけですが、自分がこの交換によって損をしないかどうかは、交換で手に入れたモノがまさしく自分の求めていた価値を持っているかどうかにかかっています。その価値は、家に持って帰って使ってみなければわからないこともありますし、家族などから「こんなものはダメだ」と言われるかもしれません。

見た目はよくても、使っていたらすぐ壊れてしまい、それで期待していた耐久性がないことがわかるといったこともあるでしょう。売り手がそれを承知で嘘をついていたかもしれません。


マーケット 価値を交換する特別な場所


交換や売買をする村や町の市場は、古くから交換のために使われる特別な場所、特別な印を付けられた場所と呼ばれました。英語で言うとmarked place です。ドイツ語やオランダ語などでも確か市場や位置が開かれる広場をマルクトと呼びます。

日本でも古代や中世から市が開かれたのは、お寺や神社などの境内かその門前でしたが、それはただそこにスペースがあったからではなく、そこが神仏によって支配されている神聖な場所だったからです。そこで交換・商取引のために嘘をつくとバチが当たるとされていたから、あるいはそういう場所なら比較的フェアな交換・取引が行われるだろうというコンセンサスがあったからと言ってもいいでしょう。

中世後期から商業が発達し、商取引を専門に行う商人が増えましたが、人口の大多数を占めていた農民からすると、商人はどちらかと言うといかがわしい連中でした。農民のように土地に根を張らず、移動しながら、農民がよく知らない土地で作られたもの、彼らが必要としているけれども、素性のよくわからないものを売ろうとするからです。

商品の価値は、モノそのものの価値ではありません。農民が必要としている度合いや、それがどれだけ希少か、どれだけ遠くで採集・生産され、どれだけ苦労して運ばれてきたか等々によって決まります。

しかし、農民たちにとって、自分たちが必要としているということ以外は、確認しようのないこと、嘘かもしれないことです。だから商品の取引、価値の交換はいかがわしい行為だったわけです。

商業が発展して中東やアジア、新大陸との交易で巨万の富を築く大商人も現れましたが、彼らが教会に多額の寄付をしたり、大聖堂を建てたりしたのも、自分たちのいかがわしいイメージを払拭するため、あるいは商売による利益追求というキリスト教的な意味での罪をあがなうためでした。

ヨーロッパ各地の都市で多くのユダヤ人が商人として生活したのは、土地を持たず、農業ができない彼らにできるのがそれしかなかったからですが、彼らがいかがわしい存在、卑しい存在と見なされたのも、よそ者であると同時に商取引、特に金貸しのような、モノとしての実体を持たない取引、価値の交換で稼いだからです。


古い雇用と新しい雇用


人は企業に雇用されることで自分を、もっと正確に言うと自分が労働によって生み出す価値を企業に商品として売ることになります。つまり、こうした魔術的な性格を隠し持っている商取引の仕組みの中に、自分が組み込まれるわけです。

もちろん人はもっと昔から、商人に店員として雇われたり、職人の工房に弟子入りしたりしていました。農民がなんらかの事情で農村を出て、商人や職人に雇われることもあったでしょう。

しかし、中世までの古い職業や雇用形態は、近代のそれとはかなり違っていました。

商人の場合、奉公という形態がありました。寝るところと食事を与えられるけれども、給料はないかないに等しいという、今から考えるとけっこうひどい雇われ方です。貧しくて、あるいは飢饉で子供を食べさせていけなくなった農民が、口減らしのために子供を奉公に出すといった事情があったのかもしれません。

奉公人になった子供としては大変ですが、農業でも商工業でも近現代のように生産性が高いわけではありませんから、商人のもとから逃げ出しても、生きていける保証はありません。食べていけるだけでもありがたいと考えて奉公人としての境遇を受け入れたかもしれません。

子供を奉公に出すのと引き換えに、親が何らかのお金を受け取るといったこともありました。一種の人身売買です。こうなると奉公人は一定期間、そこに住んで働く義務があるわけですが、これも当時としては合法的な制度ですから、従うしかありません。

職人の場合、徒弟として無給で働かされても、腕を磨いて職人として一人前になれば、技術で食べていけますから、まだ未来があります。

商人の奉公人も、がんばって知識や経験を積み、主人やまわりに能力を認められることで、商人として稼げるようになる人たちもいたでしょう。中世後期から近世にかけて、商工業が発展し、経済が拡大した時期は、有能な人たちにとって意外とチャンスの時代だったのかもしれません。

もっと前の古代ローマ時代には奴隷制度がありましたが、奴隷の中には有能で、主人に働きを認められると、奴隷の身分から解放されて自由になることができたようです。

古代ローマの本を読んでいると、解放奴隷が商人として成功し、資産家になった例も少なくないといった話が出てきます。商売を始めるには元手が必要ですが、奴隷たちは将来に備えて資金を蓄えることもできたようです。


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