2/4・2/5・2/6

・本日初バードはシジュウカラ。姿は見えず。

・おれ「マラルメわかんね〜」→モーム「マラルメはガワが目立つだけで思想が陳腐」→おれ「そうなんだ」→おれ「マラルメは好かないね。みんな華麗な詩的文句に幻惑されているけど、よく読むと皮相的で深みがない、かな笑」

・本当は昨日も一昨日も大量に書いていたのだが、後々見直して、嫌になって消した。自分が下痢便のごとくひり出した駄文の山に、親近感を覚えたことはない。全てが異物にみえる。

・一般に、感受性の強さは、現実に対するナヨナヨとした打たれ弱さに結び付けられている。私は断固反対の立場をとる。強烈な詩的感受性を持つことは、自分の内にもう一つ世界を持つことである。もう一つの世界は、苛烈な経験からの待避所として働くことができる。すなわち、「おお、哀れな〇〇よ!大地よ、その痩せた荒土に、我が涙もて...」とやれる人間は、現実の苛烈さを直接に経験していない。一種の緩衝材を通して、言い換えれば詩的世界への翻訳、いや改竄を施して、いわば詩的経験への「材料」として間接的に消費する。『生きている兵隊』、平尾一等兵のロマンチシズムを見よ。血を分けた子らの惨たらしい姿に、老武将タイタスが喚き散らした詩を思え。私はここに直接の、生の経験を見出せない。ベラベラと悲劇の心情を捲し立てるミュージカルや質の悪い邦画を見よ。そこにはナヨナヨとした打たれ弱さがあるだろうか?いや、そこにあるのは狡さとしたたかさだ。現実の悲劇はどこにも経験されていない。素朴な人間が素朴に打ちのめされるところに、本来の詩がある。りんごの皮を剥き、うなだれる笠智衆を見よ。

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