ぼっち・ざ・ろっく!とその二次創作

"ぼ廣" "リョウ虹" "ぼ喜多" "…
見慣れない単語の羅列が旧Twitterに並ぶ
これはなにを表しているかというと、「ぼっち・ざ・ろっく」のキャラクターを有志が勝手にくっつけて物語を創作する、いわゆる「カップリング」だ。

最初は面白がって見ていた自分も、1ヶ月くらい経つといつまでも止まないぼざろレズカプの供給にある種の違和感を覚える。

それは「結局オタクも人間が二人いれば恋愛に発展させる恋愛至上主義の例に漏れないのだな」と。

ぼざろ界隈のおたくは女性が多いので、俺のようなチー牛よりも圧倒的に恋愛経験が豊富なのだろう。
創作にいちいちシリアス性や臨場感が見てとれる。

しかし自分は公式ファンであり、公式での人間味がないどこかサイコパスじみた彼女たちが好きなので、あいつらに恋愛、もといR-18行為なんてされると脳が破壊されるのである。

今までは全てを性行為に繋げる美少女オタク界隈にいたが、あれは蚊帳の外の人間から見たら異様に気持ち悪いのだろうなとこの歳で実感した。
コミケ東館にはキモオタしかいない訳だよ。

男オタクは"キャラクター同士の恋愛"にあまり向き合ってこないように思う。
自分がそれらについて一番思うことは「公式の手を離れ、誰かぎキャラクターを動かした瞬間それはその人の作った別キャラになってしまう」ということだ。
それを踏まえると、男オタクは美少女キャラを性欲の捌け口としてしか認識していない場合が多いため、何の躊躇もなく出された同人誌という餌に群がる結果となるのがわかる。
よふかしのうたで、ナズナとキスをしたコウ君が性欲と恋の感情を取り違えるというアレに似ている。
『そりゃお前、性欲だよ。』

創作はオナニーで、どれだけパンツを脱ぐかだと著名人(庵野秀明など)もよく言うが、オナニーするなら一次創作でやってほしいとも思う。
作品への愛、もとい愛とエゴは紙一重なのだと理解するのでありました。

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