些細な実存

また今日も靴を隠されるのか。
憂鬱だった。学校には行きたくなかった。自分と同じ年代の、別の学校の生徒が笑いながら歩いているのを見かけると胸が苦しくなった。
その日の朝もフラフラとした足取りで僕は歩いていた。二、三分後には電車がキリリ、キリリと音を立てながらホームに滑り込んでくる。でも、いつもと違ったのは自分よりもヨロヨロしながら歩くお婆さんがいて、線路に落ちそうになった事だ。咄嗟に僕はお婆さんの身体を支えた。
「大丈夫ですかっ⁈」
「ええ、すいませんね。大丈夫です…」
明らかに疲れた顔をしていた。
「お怪我ありませんか?」
「危なかったですね」
周りにいた人からも声が上がった。
「プシューッ」
何事もなく鉄の箱がやってきて、再び走り出すための息継ぎをした。
時間がない。僕はベンチにお婆さんを座らせてから電車に飛び乗った。
耳に聞こえるほどに心臓はドキドキとしている。その音の合間に一つの声が聞こえた。
「よく助けたね。君がいなかったら危なかっただろうよ」
毎朝この時間、後ろの方で吊り革を掴みながら咳払いをしている強面のサラリーマンが、僕の肩をポンポンと叩いてそう言った。
「自分でも驚きました」
本心だった。
「スマホ見てる奴は気付かなかっただろうし、咄嗟に身体が動くってことは君が善人だからだよ」
「いえいえ、そんな…」
「カッコよかったよ」
サラリーマンは僕のところまで来てその言葉を伝えると、いつもの席の方へと移動していった。
その日の以来、靴を隠されようとも何とも思わなくなった。他人の評価を気にするのではなく、正しい行動を優先する事のほうが大切なのだ。
学校に教えてやりたい。

#小説 #ショートショート

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