君の手

俺には生まれつき左手の指が一本多いという悩みというか、呪いがあった。母親はそれでいいと俺を生かしたが、父親は俺を気味悪がったし、父方の祖母がどうせすぐにダメになるから養子にでも出したほうがいいと言っていたのを聞いたことがある。この「ダメになる」というのは死ぬという意味だ。両親のことを思っての助言だったのだろうが「じゃあ、俺はどうしたらいいんだよ」と思い始めてからはこの世界のどこに居てもうまく息が吸えなくなった。
『タコ足八本、イカ七本、勇太六本、みな五本』
こんな俺のために誰かがわざわざわ歌まで作ってくれて、俺を囲んで輪になって合唱してくれた日には包丁で指を切り落としたくなった。いや、この日だけではない。何度も何度もそう思って生きていた。
息の吸えない俺の呼吸を止めたのはクロースアップマジックだった。テレビ画面の中ではマジシャンが相手の選んだカードの数字を言い当てるカードマジックや別の場所に転移させるコインマジックが行われていた。そのマジシャンの一挙手一投足は魔法のように感じられ、俺はその魔法の手に魅了された。
「あの手が欲しい。どうやったらああ成れるんだろう」と考え、それ以来毎日カードシャッフルやコインロールを繰り返すようになった。どうせ学校で仲間外れにされるのは分かっていたから、一人で練習しているほうが楽しかった。その頃の俺は外出する時、必ず手袋を付けていた。指が多いというだけで初対面の相手から注がれる『こいつは人間ではない』という視線が痛すぎて、常人には存在しない中指と薬指の間にある一本を薬指に重ねて五本指の手袋にねじ込んで生活をしていた。「どうして手袋をしているの?」と聞かれたら当たり障りのない嘘として「アトピーだから」と答えていた。本当のことが言えない嘘つきを肯定するには、尚のことマジシャンになるしか道はないと考えたのだ。

その人と初めて会ったのは高校時代に毎朝立ち寄っていた駅前のコンビニだった。
彼女はパンとコーヒー牛乳の入ったカゴを持ちながらお菓子の棚の前で立ち止まると、まるで日常的に行なっているように平然とキャラメルを裾に入れた。その光景を目撃した俺は何を思ったのか、咄嗟に彼女の肩を叩いて「まだ間に合うよ?」と言ってしまった。すると彼女は袖からキャラメルを取り出して元の位置に戻し、店から飛び出し走り去った。
「見つかった」「とうとうバレた」「やばい」彼女がどう思ったのか分からないが、呼び止めた瞬間にそれまで無表情だったその顔から生気が感じられた気がした。普通は青ざめるはずなのに。長い髪を揺らしながら消えた時にはまた無表情だったのかもしれない。スリルを求めて盗みを繰り返す人間がいることは知っていたし、俺もその感情は分からなくなかった。
俺は時々、近くの公園で子ども相手に腕試しすることがあった。マジックを人に見せるにも準備が必要だ。それらしく見えるように手袋をしていない右手の爪を磨いたりしたがやはり違和感が残る。
「お兄ちゃんの手袋が怪しい」という子どもの意見はその通りだったし、自分としても手袋に拘束されて指が回らないことがしばしばあった。どうにかならないかと悪戦苦闘した。努力でどうにかなることではない。それは分かっていた。それでも高校三年の夏までその夢は確かにあった。確かにあった。それでも、脳内にへばりついた『マジシャンの指が六本だったら画面に映れないに決まっている』という自分自身が抱いていた偏見と呪いにとらわれ、心は無意味に押しつぶされていた。
「君達にこれあげるよ」
「いいの?お金取らない?」
「取るわけないじゃん。遊んでいいよ」
「やったー!ありがとう」
これはもう自分に何の価値も無いーー。
いや、自分に何の価値もないーー。そう思って大切な物を手放した瞬間だった。
「トランプあげちゃっていいの?」
「えっ?」
声のするほうへと死んだ魚が泳いでいくと、そこに居たのはあの日コンビニで会った彼女だった。
「もうマジックやらないの?」
「あ、君は…」
「あたし、たまにこの公園に来るんだ。イライラしたりとかさ。とくに行く場所がない時とかさ」
魚が鳥に啄まれる気持ちがよく分かる。どうにか頭を巡らせた。
「…ってことは、この間のこと怒ってる?」
どうにか回った頭は素っ頓狂な言葉を吐いた。そう言われた彼女はキョトンとしてからーー
「怒ってるって…? あぁ、あれね。万引きなんてやるもんじゃないよね。何でやってたのか自分でもよく分かんないんだ。止めてくれてありがとね」と言った。
「何というか咄嗟に声が出ちゃったんだよ。正義ヅラするわけじゃないけどさ、自分でも無意識に止めなきゃって思ったんだろうな。きっと…」
「そう…。あなたはマジックが得意なの?」
「あ、いや。得意って言えるほど上手くないけど、練習してるんだ」
「へぇ、見せてよ」
変な気持ちだった。焦るような、ワクワクするような、でも隠したいような。
「うーん。じゃあ、簡単なやつなら…」
「やった、どんなの?」
「カードマジックね」
「えっ、でも、トランプならさっきあげちゃったじゃない?」
「スペアとしてもう一箱持ってるんだ。ほら、新品だから細工もしてない。キミが開けてよ」
「なんかこの人ガチっぽいんですけど…」
ずっと一人で練習したとしても、見せる相手がいなければマジックは成り立たない。「簡単なやつ」と言いながら、その時俺は一番練習したカードマジックをやる事にした。
「俺が後ろを見ている間にトランプの中から一枚選んで」
「選んだよ」
「そうしたらそのカードを覚えて」
「覚えた」
「どこでもいいから好きなところにカードを戻して」
「はい、戻した!」
「もう予想がついてると思うけど、今からキミが選んだカードを当てます」
「よくあるやつだね!」
「でも、このマジックはただ当てるだけではなくて、二体の死神がカードの位置を教えてくれるんだよ…」
「へっ?」
俺は勿体ぶるように間を置いてから、練習した通りにカードを移動させた。
「キミが選んだのは………このカードですね?」
俺はトランプを広げて見せた。
「えっ?! なんでっ!? ジョーカーとジョーカーの間にアタシの選んだカードが挟まれてる!」
マジックは成功した。喜びを隠せなくなった俺は「スゴイでしょ?」と尋ねた。すると彼女は「キモい!キモい!寒気がした!」という率直な感想を口にした。俺が「ひっでぇ!」と返すと彼女は笑った。夕焼けの公園に二人の笑い声が響いた。

人よりも手が大きいわけではないが、妻は俺と手を繋ぐと安心すると言ってくれる。その度に俺は出会った日のことを思い出す。
もし、この手に出逢わなければ俺はいつまで手袋をしていたのだろう。それ以前に生きているのだろうか。『すぐにダメになる』というあの言葉の通りに、率先してその道を選んでいたのかもしれない。
しかしながら、人生思い通りになることは少ない。祖母にとってもそうだろう。俺は生きている。が、憧れたようなマジシャンには成れていない。営業職の傍で動画投稿サイトや動画配信サイトでマジックを見せて小銭を稼いでいる。一時的にマジシャンの仕事もしたが、俺はイケメンではなかったのだ。しかも客層は年寄りが多く、小さくて見えないという理由でクロースアップマジックは全くハマらなかったのだ。そういうことで顔を出す必要もなく、六本の指という特徴も活かせる動画や配信は俺にとってはピッタリだった。
このアイデアを考えてくれたのも彼女だった。
「どうかした?」
彼女が言った。
「ふぇっ?」
あほが答えた。
「ボーッとしてたでしょ」
「考え事だよ」
「何考えてたの?」
「君の事」
「うわぁ。キモいんですけどぉ〜」
俺はその魔法の手を強く握った。
#小説 #ショートショート

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