テクノロジーが原因の問題をさらなるテクノロジーで解決できるのかーーエリザベス・コルバート『世界から青空がなくなる日』(白揚社)書評

怖いものは好きだ。SFパニック映画も、ホラー映画もけっこう見る。でも、怖さにはいつしか耐性つき、たんなる「まんじゅう怖い」的な、怖いと言っておきながら実は怖くもなんともなく、好んでしまう。その程度の「怖さ」かもしれない。本当の怖さは、しかし、SFにもホラーにもなくて、現実にある。本書のサブタイトルは「自然を操作するテクノロジーと人新世の未来」である。人間の地球上での活動があまりに広範囲・影響大のため、地質学的に新しい区分に入ったのではないかと主張する論者がいて、その新しい名称が人新世である。ここには倒錯がある。人間の活動を支えるのはテクノロジーである。テクノロジーの結果、変化しつつある地球環境を、さらなるテクノロジーで制御しようとする。筆者はこれを「コントロールをめぐる問題の答えがあるとするならば、さらなるコントロール」とし、自然への介入がさらなる介入を必要とする事態を人新世の「再帰性」と呼ぶ。

筆者が紹介するのは、テクノロジーが引き起こした問題を解決するさらなるテクノロジーの事例だ。決してうまくいっているとは言えない。テクノロジーの介入がうまくいくならば、最初から問題など起こっていないから。問題を引き起こしたテクノロジーを、さらなるテクノロジーで乗り越えることは可能なのか? おそらく不可能なのだろうが、現実問題として「それしかない」のだ。例えば気候変動についての政府間パネルIPCCが、産業革命以降の気温上昇を2℃に収めるための二酸化炭素の排出削減目標を提示するが、排出削減だけでは気温上昇を止められない。大気中に排出された二酸化炭素を回収するネガティブ・エミッション技術の積極的な導入が前提とされるのだ。「パリ協定後、 IPCCは一・五℃の目標にもとづく別の報告書を作成した。目標を達成できるすべてのシナリオが、ネガティブ・エミッションに頼っていた。」

私は愚か(楽観的?)にも、「二酸化炭素の排出を削減すれば目標を達成できるのだろう」と思っていた。が、むろん、そんなことはなかった。排出された二酸化炭素は大気中に留まりつづけるのだ。排出量を減らすのは必要条件である。ただし、それだけでは十分条件にならない。ネガティブ・エミッション技術は開発されているが、期待されるような効果を発揮するほどの質・量を達成するには資金も技術も法律もほとんどあらゆるものが足りていない。

テクノロジーの介入を抑えるためにテクノロジーを使う。『沈黙の春』で化学物資由来の殺虫剤を批判したレイチェル・カーソンが、生物的防除を提唱していたのを、私は知らなかった。殺虫剤は確かに有害だろう。では、生物的防除、つまり害虫を食べる生き物を生態系に持ち込むことは無害なのだろうか。いろいろな場所で生物的防除は行われてきたが、ほとんどはうまくいっていない。持ち込まれた「外来種(生態系外部の生き物)」は期待された働きをせず、害虫・獣ではなく希少な固有種を攻撃する。日本だと例えば奄美大島に、ハブの駆除を目的として導入されたマングースがこの事例だ。

本書では、換金作物サトウキビの害虫駆除を期待して各地に持ち込まれたオオヒキガエルが、やがてオーストラリアに辿り着き、現地の固有種の生存を脅かす事態を解決するのに、遺伝子切り貼り技術クリスパーの利用が検討されていると紹介されている。まだ導入はされていないが、遺伝子を改変されたオオヒキガエルが将来、誕生し自然に解き離れたとして、はたして当初、期待した働きをしてくれるかは未知である。そりゃあそうか。

二酸化炭素を石に変える。成層圏に化学物質を撒き、地球の気温を下げる。川に電流を流し、外来魚を駆除する。サンゴを遺伝的にアシストし、環境変化に強い品種を作る。洪水を防いだ結果、堆積物がなくなり土地が沈んでしまうので、人工的に洪水を起こそうとする。…といった、テクノロジーをさらなるテクノロジーで制御しようとする事例が紹介される。「制御しよう」としているのであり、実際に制御できるかどうか、制御しているかどうかは、また別の話。

5万年まえの人類は、現在の私たちと同じ大きさの脳を持っていたようだ。ところが農耕文明が始まったのは5万年前ではなく1万年前からだ。なぜか? 間氷期に入り気候が安定してきたからだ、という意見を筆者は紹介している。グリーンランドの地中から採取した太古の氷を分析すると、万年単位での気温を知ることができる。それによれば、ここ1万年は安定して暖かい。それ以前は、うんと寒く、温度グラフはジグザグになっている。その当時の人類は、生存していたが、気候に翻弄され文明を築くほどの余裕はなかったのであろう。逆に言えば、現在の人類文明は温暖で安定した気候に支えられている。かつての人類がしてきたように、生存できる場所をもとめて着の身着のままで移動することは、もはやできない。動けないほどに私たちは巨大化してしまった。したがって、地球規模の気候変動には「さらなるテクノロジー」一択しかない、のだ。

本書で語られるテクノロジーは、実験段階のものも多いが、SFの世界では社会に実装されているものも多い。パオロ・バチガルピの『神の水』や『ねじまき少女』を連想しながら、読んでしまう。こんなに、現実がSFと近接していて良いのか? とさえ思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?