ハッシュタグの、隙間ーー『#ハッシュタグストーリー』(双葉社)

ハッシュタグでつなげられた四つの短編。麻布競馬場「#ネットミームと私」、柿原朋哉「#いにしえーしょんず」、カツセマサヒコ「#ウルトラサッドアンドグレイトデストロイクラブ」、木爾チレン「#ファインダー越しの私の世界」が収録されている。麻布競馬場とカツセマサヒコ目当てで読み始めた。麻布競馬場もカツセマサヒコも期待通りに面白かったのだが、今回初めて読んだ柿原朋哉と木爾チレンの作品も面白く、アンソロジーならではの出会いだ。

ハッシュタグは便利である。自分の属性から「これは!」というものを取り出して、提示し、同じ属性を持つ人たちと連帯できる便利な記号だ。連帯というのが重いならば、繋がりと言ってもいい。インスタでは「〇〇好きと繋がりたい」というハッシュタグがたくさんある。とはいえ、Twitterのプロフィール欄でハッシュタグ並べている人を見ると、連帯感より近寄りがたさを感じてしまう(私だけ?)。なぜかといえば与那覇潤が『過剰可視化社会』で書いていたが、断片化した属性を見せることで、逆説的に、見えなくなるものがあるからだろう。ハッシュタグを羅列すればするほど、そこからすり抜けていく「人間的な隙間」がある。だからプロフィールに羅列されたハッシュタグには親近感より警戒感を覚える。(私だけ?)

むろん連帯というか繋がりたくなる気持ちも十二分にわかるのだが、ハッシュタグにはない偶発性/偶然性、「マッチングしないマッチング」を信じたい気持ちがある。「#ファインダー越しの私の世界」では、出会いに最適化したマッチングアプリで結婚してる登場人物もいるので、それもまた面白い。この短編はサブカルをこじらせた大学生カップルの話。こじれたかどうかは知らないが私もサブカルの人であり、作中で言及されている『花束みたいな恋をした』も好きであり、ニヤニヤ/煩悶しつつ読み進め、しかしラストにはちゃんと感動してしまった。私がもはや40代に突入していて、「こじれ」というかなんというか、もはや人生としてサブカルを生きているからだろうか。大学生の恋愛物語が好きなのは、大学生という身分が見せるキラキラの期限が決まってるからなんだろう(蛍か!?)。自分がそうだったかはともかく…。結局、どっちのハッシュタグをつけようか、彼女は迷う。どちらかに分類したのかもしれないし、結局インスタにアップしなかったかもしれない。わからない。ハッシュタグをつけても、つけなくても、アップしても、しなくても、その逡巡、人間的な隙間が私には見えた。

人生の膨大な時間は退屈で平穏な日常が占める。退屈で平穏な日常にはハッシュタグがない。ということは、私たちの人生のほとんどにハッシュタグはつかない。ハッシュタグがつく時、日常の退屈さと平穏さを忘れられる。かもしれないが、ハッシュタグから見えてくるのは、日常の退屈さと平穏さであり、最近になってようやく私はそういう時間が人には「ある」のだと理解した。好き・嫌いではなく、ただ「ある」のだ。

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