他人のために生きる難しさと自分のために生きる難しさ

僕は自分に対して料理を全くと言って良いほどしない。したとしても、ものすごく適当で、とてもじゃないけど誰かに食べてもらうことなんてできない物が出来上がる。

何故だかわからなかった。自分の作った料理の味を知っていて面白みがないからなのか、単純に面倒なの、コンビニ弁当が好きなのか…

答えは違った。
相手が存在しないからだ。
僕が料理を始めた理由はそもそもそこにある。
小学生の頃、料理を手伝うことで親に感謝された。それが嬉しくて、頻繁に手伝うようになり、大学生で一人暮らしをしてる時は魚を捌けるようになっていた。
でもそれは単純に料理の技術を上げたいって事ではなくて、これくらい美味しくできれば誰かに喜んでもらえる!と常に思いながら料理をしていた。
いざ、自分の家で鍋パーティーをやろうとなった日には、午前中から買い出しに行き、鯵のなめろうや鰹のタタキのサラダなどの前菜を用意して、鍋をドンと出す。
みんなから「お〜〜!すげ〜!」っていう言葉が飛び交い満足感を得る。

これこそが料理をする原点。

だから、誰からの歓声もない、自分のための料理は適当にも程があるのだ。

それは仕事としての料理でも同じだった。
レストランで仕事をしている時は1ヶ月くらいは同じメニューでも、基本的に同じお客さんは来ないから毎回新鮮なリアクションを得られる。
それは料理を作る上で本当に必要な感覚なのかもしれない。レストランではできる限り非日常を味わってもらうために、手間をかける。

しかし今はどうだ?老人ホーム。30人近い料理を作っているのだが、ある程度歳を重ねると、みんな食に対してわがままが強くなってくる。そりゃ90歳前後の人なら食べる量も少ない。その少ない量を嫌いなもので満たすより、好きなもので埋め尽くした方が良いに決まってる。
30人いれば好みもまちまちだし、この歳なら無理して食べるということをしない。だから、美味しいと思っても完食できずに結構残ってくる。今までにない経験。完食してもらう事が当たり前だった自分にはショックが大きい。
そもそも毎日同じ人に料理をだすのだから同じ料理は作れないし、ハレの料理ではなくケの料理が必要で、ケの料理であればそこまでこだわりやひねりはむしろ余計だ。

普通の料理を普通に美味しく。

これ自体は難しいことではないが、「頼られてる感」や「おおー!すげー!」みたいなリアクションは得られない。そうなってくると次第にモチベーションは下がってくる。

そうなると料理ではなく環境に目がいく。整理整頓されていない場所や効率の悪い配置。これらを治したくなる。
料理でお客さんに喜んでもらおうということを半ば諦め、一緒に働くスタッフに「頼られてる感」を求めている。
ただ、ほかのスタッフはそこまで整理整頓や配置にこだわっておらず、思いの外リアクションは少ない。
こうなるともう末期だ。
お客さんからもスタッフからも頼られてる感がなくなり、自分の存在意義がわからなくなって、モチベーションはなくなり、ここでもダメかと次の職場を考え始める。

「人の為に何か出来ることを!」と思って、それに全振りしていたつもりが、「頼りにされたい」と思って自分の善意を押し付けていた。

直接自分が自分のために何かをしてあげられれば良いのに、一度他人を通してからじゃないと自分のためにならないという最も面倒くさい形になってしまった。

これが「自分のために」を失った人の末路なのか…

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