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【短編】 まだ終わらない

 終わった、とも開放された、とも思った。
 寝たきりの義母の介護を三年。それが長いのか短いのかは分からないが、楽ではなかったことは間違いない。つい最近まで頭の方ははっきりしていて登世子のことも認識していたが、元から厳しい性格の人だったからままならない自分の体に苛立って、その相手をするのは億劫だった。

 確かに終わったのだ。初七日も、四十九日も、なんなら喪中葉書の手配も終わったし、数少ない遺品の整理もほぼ終わった。夫は他に兄弟もなかったから、相続の手続きも簡素だった。そもそも受け継ぐモノ自体少なかったこともあるが。介護が始まった三年前から準備していたことなのだ、簡単に終わるのも道理である。それを薄情と言う人がいるかもしれないが、義母自身が望んで進めていたことだ、登世子が非難されるいわれはない。身綺麗が信条だった義母に、その点は感謝しているし尊敬もしている。
 当たり前だが義母が生きているうちは義母が生活の中心だった。一人息子は独立してもう久しい。三十路半ばにもなって未だ気楽な独り身であることだけ不満だが、それ以外に心配がないことを考えれば今は良しとすべきか。

 ともかく、登世子の生活は義母ありきで回っていたのだ。三年である。朝も夜も、食べるときも寝るときも義母のことを考えて行動してきた。夫も勿論手伝いはしたが、主な舵を切ってきたのは登世子だ。三年の間、ずっと。だから終わって楽になった。それは間違いない。何に急かされることもなく寝て起きて、外出だって制限なく出来る。
それなのに、登世子は何も出来ないでいた。
 旅行に行きたいと思っていた。夫と一緒でも、一人旅でも良い。長く会っていなかった遠くの友人に会いに行くでも良い。介護が始まる前に通っていたスポーツクラブも再開したいと考えていた。あれも、これも、と義母のオムツを換えながら夢想していたのに。今の登世子はただぼんやりと、義母のいなくなった部屋で一人テレビを眺めるだけだ。

 ――燃え尽き症候群ってやつかな。

 家族を介護し終わった人に多いと聞いたことがある。何でも出来るのに、何もする気が起きない。恐らくそうなのだろう。夫も息子も疲れているんだし、今はゆっくりしたら、と言ってくれている。当然だわ、と思いながら有り難く享受している。でも、それから? 今はゆっくりして、それから? 私はなにをしたら良いの? なにが出来るの?

 ――ああ、駄目だ駄目だ。とにかく出よう。買い物に行かないと。

 よいしょ! とわざと大げさに鼓舞して立ち上がる。なにはともあれ、人間食べなければ生きていけない。夫がいることに感謝している。もし自分一人であればそれすら疎かになりそうだったから。

 外は良くも悪くもない天気だった。そろそろ本格的に冬に移ろうかという時分、地面に落ちる木の葉すらわずかな様に、やたらうら寂しい気配ばかり感じてしまうのはなにを起因としたところだろうか。
 などと。
 分かりきっているのに動けないでいることが、こんなにも憂鬱なこととは思わなかった。今の自分には、季節の美しさも楽しみも、全て色褪せて映る。いつまでこれが続くのか、どうすれば治るのか。

 つらつら益体もないことを考えながらも、足を動かしていればそこは習慣で、気づけばいつもの商店街へたどり着いている。

「奥さん、いらっしゃい! 何にする?」
「はい、こんにちは。何が良いかしらねぇ」

 馴染みの青果店で声をかけられる。店先に並んでいるのは、カボチャやサツマイモ、里芋など旬の野菜と果物。もう柿は終わったのだろう、橙色の姿はない。

「コレどう、奥さん。レンコン! 良いやつだよ」

 店主が手にとって見せたそれは、確かにずんぐり丸く太く、切り口も新鮮そうだ。手にとってみればズシリと重い。値段はそれなりだが、やはり旬のものは良い。冷蔵庫にはまだ先日買った人参とゴボウが残っていたはずだから、お義母さんの好きな筑前煮を、

「ごめんなさい、今日は良いわ」

 言うなり、その場にレンコンを置いて逃げるように店を後にした。後ろで店主がなにか言っていたが立ち止まって返事をする余裕はない。普段よりずっと早く、半ば駆けるような足取りに、心臓がどっくどっくと跳ねていた。
 さほど長くもない商店街。いつの間にか反対側まで駆け抜けて、近くにある小さな公園のベンチに倒れ込むように腰を下ろした。こめかみに上った血を下ろすように、ことさら息を大きく吸って吐いてを繰り返す。初秋の日差しはまだ厳しいときもあるが、少しずつ強く冷たくなる風に助けられて額を拭った。どこからか、子どものきゃらきゃらした声が耳に届く。気の早い家が夕食の仕込みでもしているのか、醤油の香りも。
 泣いてみようかとふと登世子は思った。もう名前をつけてしまいたい。名前をつけてさえしまえば、あとは簡単な気がする。捨てるなり後生大事にしまいこむなり、なんとでも。ただ今はすべてが中途半端だ。
 水気のないしわがれた義母の喉の上下が止まった時も、白い装束をまとった軽い亡骸を棺に納めた時も、それが焼却炉に呑み込まれた時も出来上がったカスカスの白いものを箸で拾った時も、一通りは泣いたのだ。喪主の妻として相応しく、しめやかに。断じて偽りなどではない。その時その時、流した涙は本物には違いなかった。ただ、悲しかったかどうかは分からない。今となってはあれは一種の生理反応のような。すべては玉ねぎのみじん切りだったのだろうか。

「どこ? いた?」
「いた! でも届かないよ」
「おいで、おいで」

 突然の子どもの声に、登世子は我に返る。
 登世子の座るベンチから少し離れた茂みに、学校帰りだろうランドセルの三人ほどが集まって何やらのぞきこんでいた。

「ちっちゃーい」
「かわいーい」

 昔と違って色とりどりのランドセルたちが歓声を上げる。上に下にとその騒がしさに眺めるだけだったが、一つが勢い余って尻餅をついて、あらあらと反射的に登世子は駆け寄った。

「大丈夫? 怪我はしてない?」

 登世子の心配もなんのその、子ども、黄色いランドセルを背負った女の子はヘーキ、とあっさり立ち上がった。スカートの後ろを軽くはたいてやって、何の気無しに尋ねてみる。

「なに見てたの?」

 興奮した子どもたちは突然話しかけてきたオバサンにも人見知りすることなく、あのねあのねと矢継ぎ早に騒ぐ。

「子猫!」
「ちっちゃいの、昨日見つけたんだ」
「あそこ、ほら」

 子どもたちの示した先、登世子の膝ほどの植木の中には、確かにうずくまる子猫の姿があった。

「昨日はねー、三匹いたんだよ」
「黒いのとあの茶色のしましまと、もっと茶色いの」
「それからお母さん猫もいたよね」
「でもどっか行っちゃった」

 誰かが拾って行ったのかな。
 ゆうちゃんも見たって言ってた。
 そんな子どもたちのおしゃべりはもう遠い。登世子は大人の腕を目一杯伸ばして、茶色の大人しいしましまをひょいと持ち上げた。


 なんだそれ、とは帰宅した明彦の第一声である。

「アキちゃんよ」

 茶色のしましまは、必死の勢いで餌に食いついている。
 大人しかったのは詰め寄る子どもたちが怖かったのか、一人ぼっちが心細かったせいか。ぶるぶると細かく震える様に慌てて動物病院に駆け込んだが、一見したところ大きな病気の心配はなく、ノミなどもいないとのことで登世子は胸をなでおろした。

「ホームセンターってまだ開いてるわよね。ちょっと車出してくれる?」

 あんぐりと口を開けた明彦に取り合わず、登世子は子猫の飼育に必要なものをアレとコレと、と頭の中に書き出す。動物病院でも多少は手に入ったが、大きいものはそちらで揃えたほうが良いだろうと獣医のアドバイスだ。

「ちょっと、ちょっと待て……。まさか飼うつもりか?」
「そうよ。ねぇ、アキちゃん」

 秋に拾ったから、アキちゃん。我ながら安易だとは思うが、優しい枯葉色にはピッタリの名前だとも思う。
 獣医によれば生後二ヶ月程度、もう乳歯が生えているので餌はミルクでなくとも良い。ただ慣れていないのか口の端からボロボロと零しているし、後でミルクも出してやろうか。少しだけ温めてやったほうが良いか。熱心に子猫を見つめる登世子に、一度は飲み込んだだろう明彦の大きなため息が降りかかる。

「お前……。せっかく身軽になったってのに、またそんな、世話のかかるもんを」
「良いじゃない、貴方に迷惑かけないわよ」
「迷惑って……お袋のことは迷惑だったってのかよ」

 登世子は答えなかった。なんとか食事を終えた子猫の顔が餌まみれで、拭ってやるのに手一杯だったからだ。

「ご飯、まだ良いでしょ。早くしないとホームセンターが閉まっちゃう」

 ねぇお願い、とうかがうようなほほ笑みを浮かべて明彦を見上げる。明彦は黙って、一度は机の上に置いた車のキーを再び取り上げた。食後の運動、とばかり登世子の手にじゃれかかる子猫を優しく撫でて、登世子は立ち上がった。

「アキちゃんはちょっとだけお留守番、お願いね」

 すぐ帰って来るからね。
 分かったか分かってないのか、子猫は口元を舐めた。



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