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【短編】 境界線の夏

 二時間目の終わりのチャイムが鳴った後、先生が教室を出るか出ないかと同時におしゃべりが始まった。次は算数で教室移動がないからなおさらだ。七月の教室はクーラーが効いているけれど、休み時間には騒がしさで温度が上がる気がする。
 智子の前に座る陽菜ちゃんの席にも、数人の女の子が集まってきていた。今日の放課後にどこへ遊びに行くかという話題は、声が大きいから聞き耳をたてなくても普通に耳に届く。
 気にせず次の授業の準備をしていると、眼の前の背中がいきなりくるっと回った。

「智子ちゃんも行く?」

 突然話しかけられて反応が遅れる智子に、隣に立っていた凛ちゃんが聞いてたでしょ、と重ねてくる。

「遊びに行こうって。智子ちゃんは?」

 半分体を智子の方に向けた陽菜ちゃんは長い髪を片手で触りながらにこにこしている。凛ちゃんも、反対側に立つあおいちゃんも、黙って智子の答えを待っている。仕方なしに智子は口を開いた。

「今日は、塾があるから」
「ふぅん、そうなんだ。残念」
「また今度遊ぼうね」

 早くチャイムが鳴ればいいのに。
 智子の願いは届かず、陽菜ちゃんの背中も元通りにならない。

「智子ちゃんってさ、中学受験するんでしょ」
「……うん、まぁ」
「すごいよねー。でも智子ちゃん頭良いし、当たり前かぁ」
「当たり前ってわけじゃないよ。塾にはもっとかしこい子、いっぱいいるし」
「でも四年生の時から塾って、大変じゃん」
「えらいよねー。あたしなら学校のほかに塾で勉強して宿題するのなんか、絶対無理!」
「うちなんか塾はお金がかかるからダメだって」
「うちもビンボーだから行けないな。勉強嫌いだから、別に良いけどさ」

 分かっている。陽菜ちゃんたちが本気でそう思っていないことくらい。智子自身、塾通いも受験もえらいことだなんて思っていない。
 正直やめてほしいが、悪口と言うわけでもない。下手なことを言えばこちらの方が悪者にされかねないから、智子は黙って聞いている。こういうの、なんていうんだったかな。塾で習ったはずだけど、とぼんやり考えるばかりだった。
六年生になってからの学校は、こんな風に時々居心地が悪い。


「最近はどうなの?」

 夜ご飯のエビチリを食べながら、ママが言う。

「別に、普通だよ」

 塾がある日の夜ご飯はいつも帰ってから、九時すぎになる。行く前には時間が早すぎるし、満腹になると眠くなるから仕方ないのだけれど、授業中にお腹が鳴りそうになるのが少し嫌だ。あんまり夜遅くに食べると太るからと、ご飯抜きのおかずだけになるのも辛い。

「普通って、どういうこと?」
「普通は、普通だよ」

 他になんと言えばいいだろう。成績のことなら智子に聞かなくたって知っているはずだ。

「パパは?」

 遮るように智子が尋ねるとママはちょっと眉を上げたけれど、まだお仕事よ、と答えた。

「遅いね」
「パパ、会社でちょっとえらくなったから大変なのよ」
「えらくなったって、部長になったの?」

 会社でえらい人といえば、社長のほかは部長くらいしか智子は知らない。

「部長なんてまだまだ。次長になったのよ」
「じちょう?」

 ママが机に漢字を書いて教えてくれる。課長のひとつ上で、次に部長になる人、という意味らしい。次長は知らなかったが、課長というのは聞いたことがある。

「じゃあもうすぐ部長になるの?」
「すぐには難しいわね。パパの会社は大きくて人もたくさんいるし、この間次長になったばっかりだから」

 詳しいことはパパに聞いてみなさい、とママが言った。

「次長さんになるのだって大変なことなんだから。お仕事も増えるけど、その分もらえるお給料も増えるのよ」

 次に来るセリフが分かってしまって、智子はさり気なくエビチリに視線を移した。さっさと食べてお風呂に入ろう。寝る前に塾の復習をしないといけない。

「智子が受験できるのも、パパのおかげなんだからね」

 感謝しなくちゃね、とママの声と智子の心の声が重なった。


 夏休みを前に、塾の空気は少し固くなっている。受験は夏が勝負、というのが最近の先生たちの合言葉だ。去年も聞いたけれど。夏期講習にしたって、確かに勉強量は増えるだろうが、今さら目新しさはない。大人たちだけが忙しい、というのが智子の印象だ。

「夏休み、どうする?」

 授業と授業の合間、短い休み時間におしゃべりが交わされるのは、塾も学校とあまり変わらない。

「どうするって、なにが?」
「一日くらい遊ぼうよ」
「無理でしょ。学校の宿題もあるのに」
「つまんなくない? 小学校最後の夏休みだよ」
「そんなこと言って油断してると落ちるって」
「それはそうかもしれないけどさ」

 学校とは違い今度は最初から参加していたおしゃべりだが、やっぱり智子は口を開かないまま、無理だなと考えていた。
 遊びに行きたい気持ちもないではないが、パパもママもいい顔はしないだろうし、たとえ遊びに行ったとしても、智子自身勉強のことが気になって結局は十分楽しめないだろう。そうなれば遠出はできない。お盆でさえ、今年は智子の受験だから帰らない、とパパが田舎のお祖母ちゃんに電話で話しているのを聞いたばかりだ。こっそりご機嫌なママは見て見ぬふりをした。
 他の子もなんとなく智子の考えと同じような結論を話しながら、次の授業の為に席に戻り始めたその時、勢いよく教室に飛び込んできた子が叫んだ。

「森田さん、塾やめるんだって!」

 一瞬おいて、智子を含めてみんなが驚きの声を上げる。

「別の塾に行くってこと?」
「ううん。塾も、受験もやめるって」

 まさか、という思いが湧き上がった。
 森田さんはすごく頭がいい。学校が違うから普段は知らないが、塾では小テストはもちろん、模試でも成績上位者としていつも名前が廊下に張り出されていた。
 どんな中学校でも余裕だろうと言われていた森田さんが、まさか。

「それ、本当?」
「本当だよ。森田さんのお母さんと先生が話してたの、聞いたんだもん」

 そこではじめて智子は、今日森田さんが塾を休んでいることに気づいた。今までずっと、風景のようにそこにあって当然だった森田さんの姿が思い出せない。
 先生が来てもまだ教室は雑然としていたが、さすがに授業が始まればみんな口を閉じる。あっという間に学校とは違う塾の空気が戻ってきたが、智子の胸中はなかなか落ち着かなかった。森田さんが受験をやめるなんて、本当に本当だろうか。まだ信じられない。いつも最後まで教室に残って先生に質問をするくらい勉強熱心で、成績も優秀だった森田さんが。特別仲がいいわけではないが、顔を合わせれば話はするし、一緒に勉強をしたことだってある。前回の授業でもそんな様子はまったくなかったのに。
 先生が何か説明してくれないかとも思ったが、ただおかしいほどいつも通りに授業を進めるばかりだった。


 授業の後が騒がしいのはいつもの事だが、今日のそれはいつもと違う。先生も分かっていたのだろう、雑談もなしで早々に質問を受けつけ始める。藤岡さんが真っ先に先生に駆け寄った。

「先生! 森田さんが受験やめるって、本当ですか?」

 おそらく誰もが聞きたかったことだ。いつもならさっさと帰る人たちも黙って先生の反応を待っている。

「森田さん個人のことだから、答えられないんだ。ただ、この塾をやめるのは本当だよ」

と、先生は一応答えてくれたけれど、この話はこれでおしまいだと言われた以上、みんな渋々引き下がるしかなかった。

「ライバル、一人減ったね」

 塾を出る直前、藤岡さんのささやきは智子にしか聞こえなかっただろう。理解するのに時間がかかって、智子はさっさと帰っていく藤岡さんの背中をただ見送るしかできなかった。じわじわとその言葉が頭にしみこんでいくと同時に、こめかみが熱くなっていく。暑い夏の夜のせいばかりではない。車で迎えに来ているママの元へ、智子は走った。

家に帰ったらすぐ勉強しよう。もうそれしかない。

走りながら今日の授業を思い出そうと馬鹿みたいに必死になる。一刻も早く、頭の中の熱を追い出したかった。

(終)

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