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【短編】 魔女と約束の街

ふと気づけば窓から差し込む光が随分と赤い。建物の五階に位置する部屋の窓を開けて外を見ると、大きく水平線に向けて傾いた陽がその姿を朱に染め始めていた。頬に触れる空気も随分と冷えている。
ジンジャは細い息を吐いて、窓から離れた。そろそろ時間だ。
広いつばの大きな三角帽を被り、窓の隣に立て掛けていた箒を手にとった。窓を背にぐるりと部屋を見回す。壁に沿って置かれた小ぶりなベッド、反対側の壁にこれもまた小さな机と椅子、それから鏡。他には何もない。床には埃ひとつ落ちておらず、生き物の気配はうかがえない。ジンジャが一年、過ごした部屋だ。なのにその名残は本当にどこにもなかった。

(それでいい)

自分の仕事っぷりを見届けて納得したように小さく目蓋でだけ頷き、ジンジャは部屋を背にした。窓枠に足をかけて、大きく外へ身を乗り出す。
その瞬間、ピュウ、と強い風が吹いた。
ひときわ冷たい空気にいきなり横っ面を引っ叩かれて首をすくめる。だけでなく、窓枠にのっけた足も引っ込めた。瞬きの速さで全身を駆け抜けた冷気に思わず腕をかき抱いてしまう。
不意のことに驚いただけ、別に寒いのが嫌なのではない。風が強いのも問題ではない。でも、なんだか、部屋から出ていくのを押し留められたような気がしてしまう。行ってはダメ、と。
しばらくの間、ジンジャはそのまま動かなかった。視線は床に落ちる。そこに伸びる影が少しだけ、長くなる間。

「……行かなきゃ」

自分に言い聞かせるように呟いて顔を上げた。眉はハの字だったけれど、ともすればくじけてしまいそうだったけれど、ぐっと眉間に力を込めてやり過ごす。
斜めにかけたカバンを開けてお目当てのものを取り出す。白く長い襟巻き。ぐるぐると身に巻いて、ジンジャはうたう。

「『貴方は私の素敵な盾。私を守り、私を助け、私を邪魔するものを許さない』」

そして端に軽くくちづけを。淡い光が生まれて、走る。
魔女のジンジャの”まじない”
端から端へ走った光が収束して、それからジンジャは何かを振り切って、今度こそ一息に窓から身を投げた。建物の五階から。
もし誰かがそれを目にしていれば、その人は血の気が引く思いがしたことだろう。叫んで目を覆って、それから少しして恐る恐る覆いを外すだろう。地面に咲いた赤を想像して。
だがそれは全くいらぬ予想で、いらぬ心配だった。
なぜならジンジャは魔女だから。
箒にまたがり、小さな体はふうわりと浮かんで窓から更に上へ、屋根のてっぺんまで飛んだ。
茶色いレンガ屋根より少し上の高さ、ジンジャは箒に乗って飛んでいく。速くもなく、遅くもなく。けれど決して止まらずに。
背にした海からまた冷たい風が吹くけれど、今度は”まじない”をかけた襟巻きがあるから寒くない。まっすぐ、まっすぐ、ジンジャは進む。
その下ではたくさんの人達が道を歩いていた。陽はどんどん傾き大きくなって影を伸ばし、走って家路をいく人もいる。誰も自分たちの上を飛ぶジンジャには気づかない。…ほんの昨日までは、そんなことはなかった。

(やぁ、ジンジャ。どこに行くんだい)
(いい天気だね、ジンジャ。まったく箒日和じゃないか)
(あたしも連れてって!ねぇジンジャ!)

(ジンジャ、)

胸からじわじわこみ上げてくる何か、イガイガしたものが喉につっかえそうで。まっすぐ飛んでいるのに、まっすぐ前だけを見ているのに、なんだか箒の先が横っちょに歪んでいる気がする。目の前がじんわりと輪郭を緩くしていく。
ダメ、とジンジャが思ったときだった。

ーーーゴォン、

夕時の知らせる鐘の音。
ジンジャの肩が跳ねる。安全に飛ぶため、念入りに”まじない”をかけているはずの箒が鐘の音の波に揺れた。

―――…ゴォン、ゴォオン、

続く音に取り乱し、ジンジャは咄嗟に隣の屋根に足をつけた。バランスを崩しそうになって慌てて箒を降りる。

―――ォン、ゴォン……

最後八つ鳴って、鐘は止んだ。
屋根の向く方、その先にドームがあった。

(…また八つ。ヘンケル爺ったら…)

本当は七つのはずの夕時の鐘を八つ鳴らしてしまうのは、ヘンケル爺の習いだ。
だいぶ年寄りの彼は、最後の方でいくつか分からなくなっていつも一つ余計に鳴らしてしまう。町の住民なら皆知っている。もちろん、ジンジャも。何度か箒で飛んでいってその場で数えてあげたこともある。それでもヘンケル爺はいっつも八つ、鐘を鳴らした。まるで自分にしか鳴らせない音とばかりに。
八つ目の鐘の音が街の端から端へ行き渡って、海の向こう、水平線へ落ちる陽を追いかけていくのを見送って、ヘンケル爺はいつも言うのだ。

『まぁた間違えっちまったナァ』

顔中を皺くちゃにして笑って、それからぷかりとパイプをくゆらす。きっと今もそうしているはずだ。あの鐘の下で。その場にいなくてもありありと想像できる。
でも、それも今日でおしまい。ジンジャはこの街を出ていく。魔女のジンジャは一年しか同じところに留まれない。それが魔女の掟だから。

いつからか、もう忘れてしまった。随分と昔であることだけは確かだけれど、数えることをやめて久しい。
魔女は普通の人と流れる時間が違う。だから、ジンジャは街を出るときいつも自分の足跡をすべて消してきた。
なにせ長い時間を生きる魔女だから、かつて離れた街に再び訪れることも実はある。去る時にはほんの小さな子どもだった住民の、腰が曲がった頃に再会する。そんなこともある。それが、ジンジャは辛かった。

一緒にいるのに一緒じゃない。

それを思い知らされるのが辛くて、寂しくて、だからいつからかジンジャは足跡を消すようになった。”まじない”で街の皆の記憶から自分を全部失くすのだ。
最初から記憶に残らないようにすれば良いと、本当は分かっている。誰とも顔を見ず、話さず、触れ合わず。水が高きから低きへ流れるように。
でも、ジンジャは知っている。時間を同じく出来ない寂しさと同じくらい、触れた手の暖かさも。知ってしまっているから。だから、触れることをやめられない。

街を去る時、いつもジンジャは寂しくて仕方ない。殊更今回は辛かった。皆、とても親しくしてくれたから。
最近は魔女の存在は珍しくて胡散臭げに見られることもある。
この街の二つ前は鄙びた田舎町だった所為か、よそ者のジンジャをひどく嫌った。良くしてくれる人も何人かいたけれど、どうにも居心地が悪くて一年待たず去った。次に訪れた街は反対にとても大きく人も多かった。だからジンジャが何者であって何をしてても気に留められることはほとんどなく、それはある意味で気楽だったけれどその分寂しくて。そうして一年後に訪れたこの街は程よく都会で程よく田舎で。魔女のジンジャを誰も色眼鏡で見たりしなかった。
最初にジンジャに声をかけてくれたのは、他でもないヘンケル爺だった。
夕暮れ前に街にやってきたジンジャを、ドームに登ったヘンケル爺が見つけたのだ。

「お前さん、魔女さんかい」

柱にもたれてパイプをぷかりぷかりさせながら実に眠そうな表情で、箒で飛ぶジンジャにヘンケル爺は声をかけてきた。

「そう。魔女の、ジンジャ」

実のところあんまり久しぶりに人と話したものだから、その声はかすれていた。そんなところに人がいると思っていなかったことも相まって虚を突かれてもいた。だから、いつもならもう少し大人っぽい話し方を心がけているのに、こぼれて出たのはそんな子供みたいな言いようで。
ガァ、ッヘン!とヘンケル爺はやたらもったいぶった咳払いをして、ジンジャへ向かって手招きした。

「案内してやら。ちょっくら待っとけ」

ヘンケル爺はそう言って八つ、鐘を鳴らしたのだった。
その後、暗くなる前の時間に街の一番の通りを歩いたことも、町の名物でもあるタラを煮込んだスープをごちそうしてくれたことも、沢山の”友達”に顔合わせしてくれたことも、―――今までやってこれたこと、全部忘れるんだ。

「にゃぁん」

ハッとしてジンジャは振り返った。
そこに居たのは、闇色の猫だった。

「…あなた……」
「ジンジャ!」

屋根裏部屋の窓からにょっきり伸び出てきたその姿に、今度こそジンジャは飛び跳ねた。

「ジンジャ、やっと見つけました!」

猿のようにスルスルと器用に屋根を登り、更に細い足場を危なげなくジンジャの元までやってきたのは、ユスフという名の少年だった。ユスフは煙突掃除の見習いだから、身軽なことは驚かない。驚いたのは、ユスフがジンジャの名前を呼んだことだ。
いつものように煤で顔を黒くして、ユスフは足元にいた黒猫を抱き上げた。ジンジャより目線の少し低いユスフは額に薄っすら汗をかいている。息も上がって、きっと走ってここまで来たのだろう。

「…ユスフ……どうして……」
「探しましたよ、もうあっちこっち」

呆然と、蚊の鳴くようなジンジャの呟きを聞き流して文句をつけながらも笑ってユスフが言う。ユスフの腕の中の黒猫も、同意するように『なぁん』と鳴いた。ユスフがその喉をかいてやると、黒猫は目を細めてぐるぐると喉を鳴らした。
しばらくユスフも、ジンジャもそれ以上動かなかった。二人の足元から伸びる影が次第に色濃く、伸びていく。空気もすうすうと熱を引っ込めていく。

「……わたし、腕が落ちたのかしら」

視線は黒猫にそそぐまま、ジンジャが呟いた。

「ええ?どうして」

黒猫を撫でながらユスフは顔を上げて可笑しそうに言う。

「だってユスフが…」
「僕が、なんです?」

忘れていないから。
当然そう続けるつもりが、黒猫と同じように目を三日月にしてユスフが笑うものだから、ジンジャは思わず下唇を尖らせた。なんだかからかわれているようだ。こんな年下の男の子に。
ジンジャがふてくされているのに構わず、ユスフは笑って、そして腕に抱いた黒猫を突き出した。

「はい」

だらり、前足に手を差し込まれただけの体勢に、黒猫が胴を伸ばす。

「えっ?」

目をパチクリさせて差し出された黒猫と、そしてユスフを交互に見るが、微笑みが返されるばかり。

「何…、」
「早く」

戸惑うジンジャに構わず黒猫を更に目の前に持ち上げて、落ちちゃいますよとユスフが急かす。援護するように黒猫もなぁなぁ鳴いて足をばたつかせるものだから、思わず腕が動いてしまった。箒が倒れそうになって慌てて肩で挟む。抱き込んだ黒猫は軽い。まだ幼いのだろう、ジンジャの腕の中で身動ぎして座り心地を整えると、満足そうに『なぁん』と短く鳴いた。またすぐにぐるぐると喉を鳴らして、よっぽど人慣れしているのだろうか。
陽はもう半分近く地平線の向こうに沈んでいる。向かい合うユスフがそれを背に立つものだから、どんどん顔が見えなくなる。

「連れて行ってください、その子」

一体どういうつもりかとジンジャが問うより早く、まるでそれを制するようにユスフは言った。

「ジンジャと一緒に」

全く何を言っているのか分からない。けれどユスフの微笑みが、それはもう夕闇に溶けてはっきりと見えないのに柔らかなことだけはわかる、またしても口を閉ざさせる。

「それなら寂しくないから」

ね?と確かめるように首を傾ける。そういうユスフがジンジャの胸をいっぱいにさせている。
思わずユスフの視線から逃げるようにうつむけば、腕の中の黒猫と目が合った。夜空の天辺に上る満月をそのまま切り取ったようなまろい金色。美しいそれがジンジャを見つめ、しなやかに伸びて頬を舐めた。まだ年若い黒猫の舌は、猫らしくさりさりと尖っていたが柔らかで、温かい。自分でない他者の温度に、とうとうジンジャの瞳が輪郭を崩した。さりさり、さりさり、と熱心に黒猫は頬を舐める。ユスフは何も言わなかった。

***

どれくらい経っただろうか。
陽はとうに沈みきって、世界は夜を迎えていた。眼下では街灯が淡く橙に光っている。
街の住民たちは家に帰って温かな食卓を囲んでいることだろう。昼よりはずっと静かだけれど、どこからともなくかすかな団欒の声が風に乗って耳に届く。
街灯の光が届かない屋根の上はともすれば自分と黒猫の輪郭すらあやふやになりそうに暗く、だからようやく面と向かって問うことが出来た。
どうして、と。

「内緒です」

しかし返ってきた応えは到底納得できるものではなく、思わず咎めるような声が出る。

「ユスフ、」
「だってジンジャも内緒にしたでしょう。内緒で、行くつもりだったんだ」
「それは…」
「だからお相子です」
「………」

もう一歩先すら危うい暗闇だけれど、きっとユスフには思いっきりぶすくれたジンジャの顔が見えているはずだ。ジンジャの方はっきり見えた。面白がるようなほほ笑みを浮かべたユスフの顔が。いや、実際にユスフが声で笑ってみせた。ますます眉間に皺が寄る。

「ごめんなさい、怒らないで」

笑いながら言われても気は晴れない。けれど年下に噛みつくのもみっともなく思う。こうしてみれば姉弟のようだけれど、実際はジンジャのほうがずっと年長者なのだ。

「じゃあ…約束します」

分かってはいても素直に応じる気になれなくてぶすくれるジンジャに、仕方ないなと言わんばかりの態度でユスフが提案する。

「今度会うとき、教えます」

その約束は、ジンジャに息を呑ませるに十分だった。ジンジャが身じろいだことを、きっとユスフは分かっている。それでもユスフは静かに続けた。今度はまるで兄がぐずる妹に言い聞かせるように。

「だからそれまで、ちゃんと覚えておいて」

僕のこと。この街のこと。

止まったはずの涙がまた。
しかし溢れる一瞬前、腕に抱いた黒猫が一声鳴いてそれを留めた。コロロ、と軽く喉を鳴らして身を伸ばし、ジンジャの頬に頭をすりつける。慰めるようにも、咎めるようにも。そして励ますようにも。

ユスフの言葉に今度は何も返すことなく、ジンジャは箒に跨った。黒猫は腕から逃れて箒とジンジャの間に納まる。落ちないよう器用に具合を整えたのを確かめてから、箒は闇夜に浮かび上がった。

「ジンジャ!」

ユスフの輪郭だけが、ぼんやりと眼下に残る。

「元気で、それから、忘れないで!」

僕らのこと。
やっぱり口をへの字にするジンジャの代わり、黒猫が『なぁん!』と元気に答えた。小さい体で、まるで任せておけとでも言わんばかりに。
箒はどんどん高度を上げる。ユスフが何を言ったとしてももう聞こえない。
街の明かりもどんどん淡く小さくなる。急ぐ必要なんてまったくないのに、箒は風のような速さで飛んでいく。目的も指標もあったものじゃない。ただでたらめに、箒は飛ぶ。
黒猫が、また器用にジンジャの肩に登った。白い襟巻きに埋もれるようにしながらジンジャの頬に頭をこすりつける。よく効く”まじない”のおかげで黒猫も寒くはないはずだ。

「……ありがとう」

そっと撫でてやりながらわずかに箒の速度を落とす。
手のひらから伝わる柔らかい温度が、ジンジャの尖った心を少し、丸めていく。
良いよね、とジンジャはひとりごちた。

ひとつくらい、持っていっても良いわよ、きっと。

ぅるる、と黒猫が同意してくれるから。魔女は一度も後ろを振り向かず、その街を後にした。
約束だけをひとつ残して。

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