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『文章講座植物園』試し読みまとめ

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2023年5月に発売した作品集『文章講座植物園』の試し読みを掲載順にまとめました。
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『文章講座植物園』制作にあたって──本誌まえがきより

作品集『文章講座植物園』制作背景のご説明に代えて、巻頭に掲載した「まえがき」を公開いたします。津原泰水先生の代理人を務められている、アップルシード・エージェンシーの栂井理恵様からもお言葉をいただきました。 本作品集を、すこしでも多くの方にお届けできましたら幸いです。 *****  去る二〇二二年十月二日、津原泰水先生が逝去されました。  本『文章講座植物園』は、津原先生が開かれていた文章講座の受講生が、それぞれの作品を持ち寄って一冊の冊子にしたものです。講座では、受講生の

『文章講座植物園』試し読み 武太郎吉「星降りの松」

武太郎吉「星降りの松」より抜粋。 いなくなるなんて思わなかった。時計の針は動かないのに毎日は淡々と過ぎていく。 ※ モリノ凛による朗読版をこちらからお聴きいただけます。 ***** 「日本の冬は黒すぎるのよ。気の利いた色が欲しいわ」  そう言った彼女が着ているのは、Aラインシルエットのステンカラーコートで、色は鮮やかなオーシャンブルー。フラップポケットが、胸と腰あたり、上下に二つずつ、合わせて四つも付いていて何だか洒落ている。彼女が大きく伸びをすると、コートの裾がひらりと

『文章講座植物園』試し読み 小山智弘「苺ジャム」 

小山智弘「苺ジャム」より抜粋。作品ごとに異なる挿画もお楽しみください。 *****  種を植えた。公民館の家庭菜園教室を任された。慈善活動を名目に、敷地を私物化していたからだろう。色とりどりの花と野菜があふれていている。道行く人が眺めたり、写真を撮ったり、時に絵を描いたり、図鑑を片手に眺めたりしている自慢の庭だ。自治体のものだが、種の用意も土作りも行った。  教室は4月から9月まで二週間に一度あるそうだ。苗から育てて収穫と種取りを行う。私のような素人が行って良いのかと尋ね

『文章講座植物園』試し読み あらみきょうや「エキノプス」

あらみきょうや「エキノプス」より抜粋。 ──花という花に子供の顔が泛び上がり、一様に無邪気な笑みを湛えてこちらを凝視していた。 *****  枝分れした細い茎の先端でそれぞれ紫色の花が球体を形成していて、一見すると棒つきの飴玉が珍妙なディスプレイを施されているようでもある。懸命に手繰り寄せた遠き日の記憶によれば、名を瑠璃玉薊という。  先日、鉢植えが送られてきた。心当りなどまったくなかったので困惑したが、送り主の欄にかつての恋人の名が記してあるのを見て取り、半ば呆れながら

『文章講座植物園』試し読み 松本寛大「舎利の花」

松本寛大「舎利の花」より抜粋。 友人の死。彼が残した願掛けの樒の謎。主人公が弔問に訪れた家で明らかになる秘密とは。 ※ 全編をモリノ凛による朗読でお楽しみいただけます。▶︎ Part1 / Part2 / Part3 *****  田村が死んだ。肺の病気だそうだ。  報せをくれた友人によれば、仕事にかまけて体調が優れないのを放っておいたために発見が遅れたとのことだった。まだ五十を出たばかりだった。  田村とは学生時代に知り合った。その時分の田村はやせぎすで髪を伸ばし、暗

『文章講座植物園』試し読み 筒井透子「赤い花」

筒井透子「赤い花」より抜粋。作品ごとに異なる挿画もお楽しみください。 *****  コピーして席に戻ったら、メールが届いていた。広瀬課長の前任者の沢渡課長からだった。一ヶ月前、十月の異動で本社に戻ったが、本社の統括部門にいるので、今も仕事の連絡はやってくる。さりげなくメールを開けたら、いつもは課内の数人に宛てて送っているのに、今回の宛先は私だけだった。 「おつかれさまです。  週末に異動のお祝いが届きました。ありがとうございます。  ガーデニングに凝っている妻が喜んでいま

『文章講座植物園』試し読み 不知火黄泉彦「だれもがかつてはだれかのこども」

不知火黄泉彦「だれもがかつてはだれかのこども」より抜粋。作品ごとに異なる挿画もお楽しみください。 *****  生家には仏壇がなかったからうまく想像できないけれど、子供の頃、ママがおにぎりを作ってくれたときの握る直前の、てのひらに載せたごはんのかたちになら似ている。 (略)  どちらからともなく手を繋ぐ。霧雨か、汗か、絡ませた指の間に温かな湿度を感じたママは昨日の夜を想い出す。腰の奥にかすかに、でも、たしかにまだ残っている異物感とも倦怠感ともつかない名残は、けれどむしろ誇

『文章講座植物園』試し読み アサヒ愛鳥「ハコベラとサワラビ」

アサヒ愛鳥「ハコベラとサワラビ」より抜粋。作品ごとに異なる挿画もお楽しみください。 ***** 「サワラビなのか」  振り向いたらガタイのいい色黒のハーフに肩を掴まれて、ぎょっとしないやつがいるだろうか。 「汝、サワラビか」  何を言っているのか理解できないから、返答できない。だってこいつとはさほど親しくないし、いきなりあだ名で呼んでくるタイプだという認識もなかったから。 「なぁ、」 「なにその呼び方、新しい」  ビビってると思われるのも癪で、なんとか絞り出した声は、やっ

『文章講座植物園』試し読み モリノ凛「六月の庭」

モリノ凛「六月の庭」より抜粋。 伯父の家に居候中の譲司は訝しむ。祖母が愛した紫陽花は、伯父への憎しみを受け継いだのだろうか。 *****  重苦しい曇天の合間に焦らすような晴天が挟み込まれる。そんな日が続いた後で、朝から雨が降った。これで梅雨入りなら例年より一週間遅れだ。伯父は都内で一泊すると告げ、夕方の五時頃家を出た。ここに世話になって以来ひとりで過ごす二度目の夜だ。去年も同じ日に伯父は家を空けた。  俺は自室でグリュイエールチーズとロースハムのバゲットサンドを黒ビール

『文章講座植物園』試し読み 恣意セシル「柘榴」

恣意セシル「柘榴」より抜粋。作品ごとに異なる挿画もお楽しみください。 *****  小さな地方都市の申し訳程度の歓楽街で、怯えながら客引きをしていたのが初めて見たときの様子だった。  梅雨直前の、急角度で上がる湿気に飽和した空気が滲ませるネオンの海の中、安っぽく毛羽立ったシュミーズ一枚でふらふらと歩き、声をかけ、邪険にされ、それでも彼女は必死だった。見るに見兼ねて私から声を掛けたのだったと思う。小さな親切心、しかし彼女は、まさか相手から声を掛けられる可能性なんて微塵も想定

『文章講座植物園』試し読み 安斉樹「吸水少女」

安斉樹「吸水少女」より抜粋。作品ごとに異なる挿画もお楽しみください。 *****  風邪をひいて熱で苦しんでいるとき、お腹を壊してトイレから出られないとき、苦しみながらいつも考える。 『あたし、何かした?』  大急ぎで教室を出てから約一時間。紫藤陽花は畳の上で大の字になりながら、日ごろの行いについて考えていた。 湿度が古い木の家独特の匂いと畳の匂いを引き出して、鼻の奥にまでまとわりついてくる。まだ六月だからと冷房をつけることを禁止されているが、帰宅した家族に怒られてもい

『文章講座植物園』試し読み 関野早紀「オンディーヌ」

関野早紀「オンディーヌ」より抜粋。 ピアノ教室に通う一果(いちか)はレッスン中、十年前の記憶を思い出す。 *****  いっちゃん、本当の本当にあそこに通うの?  幼馴染の言葉が頭の中で何度も響く。あそこ、お化け屋敷だよ。  小学二年生の一果は楽譜の入ったかばんを抱え、教室の庭先にぐずぐずとしゃがみ込んでいた。見上げた初夏の青空にはえごの木が、釣鐘型の可憐な花を無数に連ねている。けれど伸びすぎたその枝はアプローチを塞ぎかけていたし、木陰には羊歯や擬宝珠が好き放題生い茂り、

『文章講座植物園』試し読み 増田邯鄲「集合知、土に還る。」

増田邯鄲「集合知、土に還る。」より抜粋。作品ごとに異なる挿画もお楽しみください。 *****  たまに祖父のことをテレビで見かけるものだから、僕は祖父を有名人だと思っていた。何もスーパースターというほどのものではない。けれどふとした瞬間、番組の合間合間に赤ら顔の祖父が出てくる。  画面に祖父を見かけるたび、「じぃちゃ」と訴えるのだが、両親が画面に向き直る頃には祖父の出番は終わっている。両親は僕のことを、突然祖父のことを口にする「えらいおじいちゃん子」だと笑っていた。その点

『文章講座植物園』試し読み 櫂 十子「シックスティーン・キャンドルズ」

櫂 十子「シックスティーン・キャンドルズ」より抜粋。作品ごとに異なる挿画もお楽しみください。 ***** 1  新保光四郎が「体幹鬼強糞爺」になったその日は、光四郎の四十回目の誕生日でもあった。  残業終わりの午後九時過ぎ、光四郎はオフィスのある小さな雑居ビルから外に出た。  ぴりりと冷たい空気が光四郎の身体を包み込む。試しに、はぁと息を吐いてみると怪獣の光線のように白い息が伸びた。 「母さんの言う通り、コートを着てくればよかったな」とぼんやり考えながら、薄灰色のスー