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『文章講座植物園』試し読み 武太郎吉「星降りの松」

武太郎吉「星くだりの松」より抜粋。
いなくなるなんて思わなかった。時計の針は動かないのに毎日は淡々と過ぎていく。
※ モリノ凛による朗読版をこちらからお聴きいただけます。

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「日本の冬は黒すぎるのよ。気の利いた色が欲しいわ」
 そう言った彼女が着ているのは、Aラインシルエットのステンカラーコートで、色は鮮やかなオーシャンブルー。フラップポケットが、胸と腰あたり、上下に二つずつ、合わせて四つも付いていて何だか洒落ている。彼女が大きく伸びをすると、コートの裾がひらりと裏返り、小さなロゴが総柄にプリントされた裏地が見えた。私は眩しさに目を細める。本日は曇天。恒星じゃあるまいし、発光して見えるなんておかしいと思うんだけど。

 そこの寺には樹齢六百年を超えた〝影向ようごうのマツ〟と呼ばれるクロマツがあって、枝が四方にとても長く伸びている。寺の由緒が書かれた案内板には〝東西約三十一メートル、南北に約二十八メートル〟とあった。
 ちょうど射位から的までの距離なんだよなぁと、私は弓を持っている右手を見る。おもむろに左手に持ち替えて、影向のマツの向こう側にある仁王門へ向けて身体を垂直にし、足を外側に左、右と開いた。弓を持った左腕を真っ直ぐ横に伸ばし、最近張り替えた新しい握り革越しに狙いをつけてみる。マツの高さは八メートルと、これも案内板に書いてあったが、太い枝たちがうねうねと目の前を横切っていたり、マツの下に入れば腰を屈めて枝えだを避けなければならず、圧迫感がある。矢が真っ直ぐ飛んでいく道は、なかなか見つけられそうにない。
「あれ、千鶴さん。こんな時間にどうしたんですか」
 声がする方向を見ると、袴姿に黒のマフラーをぐるぐる巻きにした少年がコンビニ袋をぶら下げて山門から歩いてきた。マスクのせいで眼鏡が真っ白だ。
「午後から仕事休んじゃった。富太郎くんこそ」
と私は言った。
「僕はもう冬休みなんで」
 そう言うと富太郎は、曇った眼鏡を外して、上衣から手拭いを取り出しキュッと拭いた。
「いや……っていうかキミ、受験生じゃなかったっけ。勉強は?」
 そう私が聞くと、
「頭、いいんで」
 丁寧に眼鏡を拭きながら、富太郎は答えた。
「あ、そう」
 たいそう間抜けな声を出してしまった。本人は気にするそぶりもない。実際優秀なので、嫌味でもなんでもなく、事実を言っただけなのだろう。何とも憎たらしい。
「突っ立ってないで早く行きましょうよ。寒くてかないません」
 眼鏡をかけなおして富太郎は、両手で二の腕をさすりさすり、軽く足踏みをしながら私を見た。
「道場も、あんまり変わらないと思うけど」
 弓道場というものは、射場は屋内になっていても、大体矢道は屋外にあるため、吹きさらしになっている。屋根があったって、ほぼ外にいるようなものだ。まれに屋内に道場がすっぽりとおさまっているところもあるけれど、〝あそこはぬるま湯に浸かっているから覇気が無い〟等と言われたりする。まぁ、ただのやっかみである。
「ストーブがありますから。座敷に炬燵も出てますよ」
 ほらほら、と私を促し早歩きで影向のマツの下に入っていく。枝えだを支えるために、そこらここらに支柱が立っている。マツの下は、ちょっとした迷路だ。
「弓、上、気を付けてくださいよ」
 マツの中からそう声が聞こえて、私は弓の末弭うらはずを前に傾けて富太郎の後を追った。そういえば、彼と会ったのも、先生と会ったのもここだったなと思った。

挿画:今村建朗

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続きは『文章講座植物園』にてお読みいただけます。

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