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『文章講座植物園』試し読み モリノ凛「六月の庭」

モリノ凛「六月の庭」より抜粋。
伯父の家に居候中の譲司は訝しむ。祖母が愛した紫陽花は、伯父への憎しみを受け継いだのだろうか。

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 重苦しい曇天の合間に焦らすような晴天が挟み込まれる。そんな日が続いた後で、朝から雨が降った。これで梅雨入りなら例年より一週間遅れだ。伯父は都内で一泊すると告げ、夕方の五時頃家を出た。ここに世話になって以来ひとりで過ごす二度目の夜だ。去年も同じ日に伯父は家を空けた。
 俺は自室でグリュイエールチーズとロースハムのバゲットサンドを黒ビールで流し込み、PCにヘッドホンをつないでホラー映画を物色した。好みはゴシックホラーなのだが、契約している動画配信サービスにめぼしい作品はなかった。仕方なく〈絶叫系〉のホラーを選択する。演出が露骨すぎて、恐怖が最高潮に達するはずのところで爆笑してしまった。画面右下を見ると八時を回っている。
 ヘッドホンを外した瞬間、足音が耳に飛び込んできた。階下に誰かいる。伯父が戻る可能性は低い。階下の窓と玄関ドアには警備システムが作動している。だとしたら可能性はひとつだ。それでも足音をしのばせて階段をおりた。ダイニングに通じるガラス扉を開ける。野趣を帯びた甘い香りが漂ってきた。湿った森を彷徨う獣を思わせる。窓辺に立つ長身の後ろ姿に呼びかけた。
「あの、彬さんですか?」
 振り返って頷いた彬さんの身長は、俺より五センチくらい高いだろうか。大きくウエーブしたライトブラウンの髪が青いシャツの肩にかかっている。心持ち肩幅が狭く手足が長い。正面を向いた彬さんの全身像に意表をつかれ、まばたきをした。
「こんばんは。君は譲司君だね」
 柔らかな低音が部屋の空気を優しく包み込む。彬さんは形のよい口元に笑みを浮かべた。髪と同じ薄茶の眉はきれいに整えられ、切れ長の目はくっきりとした二重瞼だ。
「ええ。はじめまして」
「はじめまして。と、いってもぼくは去年きみを見ている。寝顔だけどね」
「はい?」
「ちょうど一年前の今日、帰って来たんだ。きみはそこのカウチで眠っていた。起こすのは気の毒だと思ってすぐに出て行ったよ。よだれだけ、拭いてあげた」
 彬さんは自分の手元に視線を落とし、返答に窮する俺にいたずらっぽい視線を向ける。
「気にしなくていいよ。去年は花を取りにきたわけじゃない。だから長居する必要はなかったんだよ。足元に気をつけて」
 彬さんが前方を指さした。ダイニングテーブルの脇に透明な筒が置かれている。俺の足の付け根くらいの高さで、八分目ほど水が入っていた。彬さんは窓の外を眺めて呟いた。
「なんとよこしま な」

挿画:今村建朗

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