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『文章講座植物園』試し読み あらみきょうや「エキノプス」

あらみきょうや「エキノプス」より抜粋。
──花という花に子供の顔が泛び上がり、一様に無邪気な笑みを湛えてこちらを凝視していた。

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 枝分れした細い茎の先端でそれぞれ紫色の花が球体を形成していて、一見すると棒つきの飴玉が珍妙なディスプレイを施されているようでもある。懸命に手繰り寄せた遠き日の記憶によれば、名を瑠璃玉薊という。
 先日、鉢植えが送られてきた。心当りなどまったくなかったので困惑したが、送り主の欄にかつての恋人の名が記してあるのを見て取り、半ば呆れながらも素直に受け取ることにした。草花を偏愛しているひとだったから、無下に突き返す気にはなれなかったのだ。
 別れてもうじき二年になる。ある日ふらりと出ていって、それきり帰らなかった。奔放なやつだった。いつか消えてしまうのではないかという予感はかねてより心に懐いていたので、それが現実となってもさほど愕くことはなかった。わたしはこのような状況で泣いたり喚いたりすることのできない性分ゆえ、気紛れな猫とでも同居していたのだと割り切って忘れることにした。
 未練など微塵も残っていない。情に絆されて受け取ってしまった鉢植えにしても、異変に気がつくまではベランダの片隅に追い遣ったまま気にも掛けずにいた。
 今朝方のことだ。締切りの差し迫った仕事をどうにか片づけてベランダで莨を咥えたときに眼に飛び込んできた真夏の太陽があまりにも眩しかった。思わず顔を背けたその先に、件の鉢植えがあった。花が一斉に笑った。
 譬喩ではない。花という花に子供の顔が泛び上がり、一様に無邪気な笑みを湛えてこちらを凝視していたのだ。
 幼少のころは不規則なパターンの模様に某かの意味を見出しては怯えてばかりいた。壁紙の図柄に、石畳の配列に、人の顔が見える。一度認識してしまうともはや消すことは敵わず、ついにはそれが意思を持って自分を睨んでいるように思えてくる。とりわけ植物は苦手だった。あいつらには眼鼻がある。口を開けて威嚇してくるやつもいる。しかも、動く。
 成長とともにその感覚は薄らいでゆき、表向きは人並の生活を送ることが可能になったものの、今でもふとした弾みで甦ってしまうことがある。今回もどうせその類の錯覚だろうと考えていた。朝の陽光が作り出した影のトリックか、あるいは徹夜明けの脳が見せた幻か。
 あのころとは違う。光の角度で、そして自らの心持ち次第で、幻影は如何ようにも形を変えうるものだということを、大人のわたしは知っている。
 しかし、ひと眠りして気力が恢復しても、夕刻になって陽射しが翳ってしまっても、小さな顔の群れは一向に消えようとしない。それどころか輪廓はますます明瞭になって、花の表層を透かして寒寒しいまでの紫色をしていた肌にもほんのりと赤みが差し始めているではないか。
 すぐさま鉢を室内に運び入れ、確証を裏づけるべく花の外観をつぶさに観察した。もはや疑いようもない。人工燈の仄白い光の下であどけなく微笑むその顔は、紛れもなく人間の子供であった。
 試しにスマートフォンを構え、カメラのレンズを向けてみた。撮影するまでもなく、画面に映る瑠璃玉薊は何の変哲もないただの植物だった。
 機械に検知できないのであれば、おかしいのはわたしの眼か頭のどちらかということになる。顔のひとつにそろそろと手を伸ばし、丸みを帯びた頬を指先でそっと撫でた。確かな弾力と、温もりと、脈動が感じられた。花は眼を細めて笑った。
 途方に眩れた。わたしが幻と信じているものは確乎たる実態を持ち、しかもそれがこの鉢植えに息づいているのだ。
 いっそ捨ててしまおうかとも考えた。だが、このように得体の知れないものを迂闊に廃棄してもよいものだろうか。他者の眸に映ずる瑠璃玉薊にも同様の顔が生じているとはとても思えないが、万一、騒ぎにでもなったら厄介だ。だいいち、この子たちは生きているのだ。薄気味悪い化物とはいえ、軽軽しく処分してしまうのは些か気が引ける。
 見馴れてしまえば当初ほどのおぞましさは感じない。それどころか、屈託のない笑顔で見つめられているうちに知らず識らず頬が緩んでしまう。まことに不本意ながら、この奇妙な植物もしくは動物は、わたしを和ませる力を持っているのだと認めざるを得なかった。
 今のところ喋る気配はないが、どうやら耳は聞えているらしい。これまでも物音に怯えるような素振りはたびたび見せていたが、ことに大きな音が苦手な様子で、玄関のチャイムが鳴り響くと皆、慌てふためいたように視線を游がせ、がさがさと身を捩って煩悶していた。
 そのさまがあまりにおかしかったので、わたしは音を感知して踊り出す玩具を弄んでいるような気分になり、相手の眼前で手を拍ち鳴らしたり、音楽を大音量で流したりして、花たちの反応をひとしきり堪能した。なお、インターフォンのモニターには何も映っていなかったため、子供の悪戯であろうと判断して来客は放っておいた。
 そういえば、二年前に消えた恋人もこの手の子供じみた悪戯が大好きだった。インターフォンのカメラを手で覆ったり、ドアの陰に隠れたりすることなんて日常茶飯で、ふたりで暮していたときにはさんざん手を焼かされたのではなかったか。そのことをはたと思い出し、急いで玄関に向ったものの、扉の前に既に人影はなく、湿気を孕んだ夏の空気が漫然と漂っているだけだった。
 何となくうちに馴染んでしまった瑠璃玉薊であるが、就寝時と仕事中にはベランダに出てもらうことにした。かわいそうだが、いまだ謎だらけの生物を前に無防備な姿を曝すわけにはいかない。まさか取って喰われることはあるまいが、多数の眼に絶え間なく視線を注がれていたのでは心の休まる暇がない。
 育て方をきちんと把握しておかなかったのは失敗だった。仕事にかまけてしばらく世話を怠っていたら、気づいたときには花のほとんどが年老いて枯れてしまっていた。
 死に顔は老人そのものだった。愁歎するほどの愛着こそまだなかったが、後悔と罪悪感に苛まれながら死んだ花を捥ぎ取り、ひとつひとつ、鉢の中に埋めてやった。こうするよりほかに手立てがなかった。前述のとおりそのまま捨てるには異様すぎる風体だったし、人間の顔をしたものを燃やしたり潰したりするのはさすがに抵抗があった。
 ただひとつ残った花は、それでも笑っていた。死んでいった仲間の生気をすべて吸い取ったかの如く瑞瑞しい耀きを纏い、息を呑むほどに艶やかな姿に成長していた。かつての恋人と同じ顔に。

挿画:今村建朗

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