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『文章講座植物園』試し読み 関野早紀「オンディーヌ」

関野早紀「オンディーヌ」より抜粋。
ピアノ教室に通う一果(いちか)はレッスン中、十年前の記憶を思い出す。

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 いっちゃん、本当の本当にあそこに通うの?
 幼馴染の言葉が頭の中で何度も響く。あそこ、お化け屋敷だよヽヽヽヽヽヽヽ
 小学二年生の一果は楽譜の入ったかばんを抱え、教室の庭先にぐずぐずとしゃがみ込んでいた。見上げた初夏の青空にはえごの木が、釣鐘型の可憐な花を無数に連ねている。けれど伸びすぎたその枝はアプローチを塞ぎかけていたし、木陰には羊歯や擬宝珠ぎぼうしが好き放題生い茂り、壁を伝う定家葛は玄関屋根をも分厚く覆っている。日が暮れれば山奥の廃屋とも見られかねない風情だった。
 一果の小学校では、はたの住まいでもあるこのピアノ教室はもっぱら肝だめしのスポットとして知られていた。陰気な佇まいだけが理由ではない。数年前、ひとり娘を亡くしていた。川での水難事故だったという。同じ町内に暮らしていたから、一果の一家は通夜にも参列した。一果はまだ幼かったけれど、天井近くまで祭壇を埋めた白百合が、ほの暗い会場で発光しているように見えたのをよく憶えている。亡くなった女の子、葉子もちょうど八歳で、彼女の同級生たちはもう中学校に上がっていたが、あの家を訪ねた誰某が幽霊に睨まれたとか襲われたといった怪談は今も残って、
「気もちわるい」
 と言い捨てた幼馴染はそれ以来、登校も下校も一緒にしてくれなくなった。
 お母さんが聞いたら呆れるだろうな、と一果は抱えたかばんに顔を押し当てて、仕事中の母親の姿を思い浮かべた。銀色のピンセットとミラーを操って、患者の口の中を観察している。再びフルタイムで働きはじめた母親は、一果を以前のピアノ教室へ送り迎えすることができなくなってしまった。そのかわり、新しい教室の体験レッスンに連れていってくれた。帰り道、スキップをする一果の手を母親はぎゅっと握った。
「噂話なんかより、自分の見たものを信じなさい」
 そうだ、と一果は立ち上がった。上手になったところを見せたくて、あれから毎日練習してきたんじゃないか。枝を掻い潜って玄関に辿り着いた一果は背伸びをしてチャイムを押した。反応がない。しばらく耳を澄ませたのち、ドアハンドルを握ってゆっくりと扉を押し開けた。

挿画:今村建朗

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続きは『文章講座植物園』にてお読みいただけます。

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