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ウズベキスタンの兵士に惚れた

≪兵士に惚れた≫

ウズベキスタンの青の都サマルカンドは憧れの地であった。現地ガイドと運転手の3人で移動していた。ウズベキスタンの夏は暑く、最高気温は40度近くになる。車のエアコンは音はしているが効いていないようだった。食堂に入っても食欲はなく、小皿にある岩塩がおいしくてポリポリかじっていた。
遠くを長い貨物列車が走っていて、ロシア製の兵器を積んでいると説明してくれた。
アフガニスタン、タジキスタンの国境近くを走行していた。後部座席で暑い、暑いとぐったりしていたら、突然「パーンッ」という大きな爆発音がした。「やられた!(撃たれた)」と思って、跳ね起きて前の二人を確認した。二人は無事だった。ダッシュボードの上に置いた運転手のライターがフロントガラス越しに熱っせられ、破裂したとのことだった。
動悸が収まらないうちに検問所で車を止められた。カラシニコフ銃を肩に掛けた兵士が、窓を開けさせてパスポートを出せと言った。私のパスポートをしばらく眺めていたが、パスポートを持って検問所の小屋に行ってしまった。心臓が早鐘を打っていた。緊張して待っていたら、3人の兵士がやってくるのが見えた。全員カラシニコフ銃を肩に掛けている。「拉致される、日本に帰れない、親は悲しむだろう」短時間に一気に考えた。
3人の兵士は窓から私をのぞき込み、笑顔で「Happy Birthday」と言った。その日は私の誕生日だったのである。3人の兵士は彫が深く、陽に焼けてたくましく、とびきりのイケメンだ。引き締まった身体に制服がよく似合っていた。拉致妄想は吹き飛んで、笑顔で手を振って検問所を後にした。

≪ナボイ劇場≫

タシケントでナボイ劇場という大きな建物に案内された。戦後日本人が建てたもので、大地震の時には多くの建物が倒壊するなか、この建物は無傷だった、と説明された。その時は「ふーん、日本人はえらいでしょ」と思っただけであったが、帰国後調べてみると、ソビエトの捕虜となったシベリア抑留者が建設に関わったと分かった。ロシア革命30周年にあたる1947年までに完成させるため、旧日本軍兵士が強制的に移送された。父がシベリアに抑留されたのは遠く離れた極寒の地であったが、ナボイ劇場をほとんど素通りしてしまったことを申し訳なく思った。深く頭を下げて手を合わせてくるべきだった。
1996年に設置された日本人の貢献を記念したプレートには「捕虜」という言葉は使用されていない。時の大統領が「ウズベクは日本と戦争したことはないし、ウズベクが日本人を捕虜にしたこともない」として「捕虜」をという言葉は使用させなかったという。ウズベキスタンがソ連から独立したのは1991年である。旧ソ連邦の歴史、民族、考え方は日本人の想像をはるかに超えて複雑だ。


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