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ケアする母の心は深く傷つく

まあ、小さな波はあったものの、長女が大きく躁転しないで過ごせた約一年間の後、やはりやってきたのです。
躁病が。
コロナ禍でできなかった、さまざまな行事が多々行われ始めたこの秋。
ウキウキで済めばよかったものを、すっかりスイッチが入ってしまって、わあわあがやがやがらがらどっしん、天地がひっくり返って大騒動。
大声、阿鼻叫喚、怒鳴り声、暴言の雨嵐が吹き荒れ、長女は絶好調。
長女は躁病という病気なのだとわかっていても、母は深く傷つき、自分を取り戻せず、グダグダに疲れた心を引きずり、絶望し、深海に落ちこみました。

躁病の取り扱い控えによると、
さからわない。
おこらない。
のせられない。
とありますが、理不尽な長女の命令や、要望に、逆らわないで怒らないで、いると、こちらが病気になってしまいそうです。
いや、もう病気になっているので、私は神経内科に通院しているのです。

長女のきりのない要求は、「靴下、かばん、服、食べ物」など身近なものです。まあ、世界が限られていますから。
私は、デパートでも、コンビニでも、ファミリーレストランでもないのですが、長女は家に無いものを要求します。
「それは無いから買いに行きます。」と言うと、
「買いに行かないで。」と長女は言います。
要するに無理を言うのです。激しい大声で。

それで、私はタイムアウトします。
追い掛け回す長女の手をうまく潜り抜ければ、外ヘ出られます。
でも外へ行くことができないことが多いのです。
そこで、私は、自分の中の壮大な宇宙へと逃げだし、マルチバースへタイムアウトします。
しかし、これは結構危険かもしれません。
こういうことを繰り返していると、心に負担がかかります。

しかし、私はじゅうぶん大人で、臨床心理学修士で、長女の躁病はいずれ収まります。
だから大丈夫でしょう。

しかし、心は傷つきます。
長女の大声によって。
長女の暴言によって。
長女が病気であることによって。

そして何より私が傷つくのは、
長女の大声がご近所に聞こえて恥ずかしいと思ってしまう自分の心に。
せめて、長女が知的障害だけで、躁病と言う精神障害が無ければいいのにと思ってしまう自分の心の狭さに。
自分自身の中に、優生思想があることに気がついてしまったことに。

自分がいかに狭い心の人間であるということが、わかってしまったことに傷つくのです。
障害のある長女との生活は、とことん、ぎりぎりまで、自分自身の内面を掘り下げられてしまうのです。
自分の心の奥底が見えてしまうことほど怖いものはありません。

長女の主治医に電話で相談し、早めに薬を増量して調整したので、そろそろ効果が出てきたようです。
生活介護で広い公園に連れて行ってもらった昨日。
「今日は、よくねむれるな。」と言う言葉が出た長女。
声も嗄れてきたし、今朝も、大騒動は起きなかったし。
嵐が通り抜ける予感がします。

躁病は大竜巻を起こし、母親に涙と言う大雨を振らせて、家の中に、沢山の洋服を巻き散らかして、そろそろ、我が家を通り抜けようとしています。

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