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生きることは老いること

最近は長女が躁状態にもならず、穏やかに過ごしているので、私もストレスが少ない生活をしている。
そんな長女が、にっこりとした笑顔を見せてくれると、私も心が和む。
そして、毎日、「おやすみなさい」と言って、お布団に入ることができる。
暖かい布団の中で、今日も一日無事に過ごすことができたなと、ありがたく思う。
一日無事に過ごすことができたということは、また、一日老いたということでもある。
躁病の長女と共に生きてきた人生の半分くらいは、夜がぐっすり眠れない生活だったから、夜眠れる生活ができている現在は、この上ない幸せな日々を過ごしているということである。

そして、朝が来る。
目を覚まして、布団の中でぬくぬくしていると、
「ああ、今日も一日、生きることができる。」という感謝の気持ちと、
「ああ、今日もまた一日生きなくてはならない。」というつらい気持ちが同時にこみあげてくる。

生きることができるのはとても、ありがたいことではあるが、老障介護の生活といえば、それほど、楽でもなく、大変なことの方が多い生活であるからだ。
それでも、長女が小さいころには、このようなことも感じる暇さえなかったわけだから、今の老障介護の生活の方がよほど、人間らしい生活なのかもしれない。

若い人たちは、「いかに老いるか。」とか、「どのように老いていくのがいいのか。」とか、「いかに、若いままでいることができるか」などと、考えることもあるようだが、実際は、特に何もしなくても、生きていることがそのまま、老いることにつながっている。
なのに、人間とは勝手なもので、若い人は自分の「老い」を何とかコントロールできるもの、今の若さとは全く別の次元のものと思っているようだ。
まあ、それが人間の愚かなところではあるが、今日は明日へつながり、一日一日の積み重ねが、十年、二十年の積み重ねとなり、老いていくのである。

障害や病気についての考え方も同じである。
健常と思っている人は、障害や病気を自分の生活とは全く別の次元のものと思っている。
だから、自分や家族に障害や病気が降りかかってくると、天地がひっくり返ったような思いをする。
それは、非常に当たり前のことである。
この世の中では、障害や病気をネガティブなもの、良くないもの、悪いもの、マイナスなもの、あってはならないもの、無い方がいいもの、避けたいものとして、認識しているからだ。
健康も、病気も、障害もひっくるめて人間なんだけど。
身勝手な人間はそうは思っていない。

でも本当は違う。
健康と思っていても、「もしかしたら病気」かもしれないし、「自分こそ正常」と思っていても、もしかしたら勘違いかもしれないし、自分の子どもは優秀と思っていても、生れてみたら障害児かもしれない。
そして、自分自身、明日の朝起きたとき、「変身」しているかもしれないのだ。

病気や障害を治すことができると思いこんでいる人たちも多いが、世の中には治らない病気や、治らない障害というものもあるのだ。

障害や病気がある人もいる。
治らない病気もある。
元気な人もいる。病気の人もいる。障害のある人もいる。
子どももいる。高齢者もいる。
働くことができる人もいる。
働くことができない人もいる。
それが人間なのだということを、どうしたら世の中の人が認識することができるのだろうか。

インクルージョンへの道ははるかに遠い。

ドライビング・ミス・デイジー
1990
ブルース・ベレスフォード監督


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