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1993年6月の「2-0は危険なスコア」。あの伝説のルーツを探る。

日本政府は2020年5月14日に、新型コロナウイルス対策の緊急事態宣言を、東京都や大阪府などを除く多くの地域で解除した。5月14日は1993年にJリーグが開幕した5月15日の1日前。2020年5月15日にはJリーグ公式YouTubeチャンネルでネットイベント「みんなで93年Jリーグ開幕戦を観戦!Stay Home, 原さんと一緒に #おうちでJリーグ 」が開催された。多くのサッカーファンが観戦防止のために外出を控え、自宅で1993年5月15日、16日に開催された開幕戦を視聴した。

「2-0は危険なスコア」で引き締める!?

その前後の時期に、Twitterに投稿された多数の「2-0は危険なスコア」ツイート。Jリーグが開幕して27年が経つが、いまだに「2-0は危険なスコア」だと信じる人が多数存在することに私は衝撃を受けた。コロナ禍が「2-0は危険なスコア」伝説を蘇らせたのだ。

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実際には「2-0は危険なスコア」ではないことを多くのサポーターは知っている。

英衛星放送局「スカイ・スポーツ」の検証によればプレミアリーグで2-0から逆転される確率は2.8%。

「1992年8月にプレミアリーグが始まって以来、1試合で2点のアドバンテージを保っていたチームは合計で3087チーム。その3087チームのうち、2767チームが勝利を収めており、引き分けに終わったのは234チームで敗北に終わったのは86チームに過ぎない」と説明した。それをパーセンテージに置き換えると「2点のリードを得たチームの89.6%が試合に勝利し、7.6%が引き分け、2.8%が敗北していることになる」。

Jリーグで2-0から逆転される確率は2.9%。

この確率はJリーグでもほぼ同じ。JリーグがJ1、J2、J3リーグ戦の過去4年間のデータを元に、2-0の状況が生まれた試合について調査したところ2点を先取したチームは9割以上の確率で勝利を収めており、逆転負けする確率は2.9%でしかない。

ここまでは数ある「まとめサイト」等でも書かれてあることだ。「そんなの知っているよ!」というサポーター読者の声がここまで聞こえてきそうだ。では・・・。

このnoteを公開してから声をいただいた。ここに追記する。
●初めて「2-0は危険」を聞いたのは岡野俊一郎氏(1931年-2017年,1990年からIOC委員)解説の80年代の日本代表戦かダイアモンドサッカー(海外のサッカーを紹介する東京12チャンネルの番組,1968年-1988年)だったような。
●キャプテン翼のワールドJr.ユース大会前の話の中で「2-0は危険」が出てきた気がする。
そう、Jリーグが始まる以前に、世間と隔絶されたマニアの世界やプレーヤーには「2-0は危険なスコア」が意識されていた。この小さな記憶がJリーグ後に「2-0は危険なスコア」を日本中に広がる下地になっていたかもしれない。

では、Jリーグが始まり日本中にサッカー観戦が広がっていった1990年代に「2-0は危険なスコア」はどのように認識されていったのだろう。

「2-0は危険なスコア」のルーツはどこにあるのか?Jリーグの公式記録を調べてみた。

1992年に開催されたJリーグヤマサキナビスコカップは全48試合が行われた。日本のプロサッカーとして初めての大会だ。それまで100人〜数100人という観客数も珍しくなかった日本のサッカーはプロ化で激変。1試合平均 11,111 人の観客を集めた。多くの試合が地上波で生中継された。1試合平均 (2チーム合計)3.15 点というハイスコアなゲームが多かった。しかし意外なことに2-0から追いつかれた試合は1つもない。

そして1993年に開幕するJリーグ。ここからが本題だ。

日本のプロサッカー史上初の「2-0は危険なスコア」。鮮烈に印象付けたJリーグ元年・鹿島アントラーズの1993年6月。

今でこそ試合巧者で知られる鹿島アントラーズだが、当時は日本サッカーリーグ2部からいきなりJリーグ入りした実績のない小さなクラブだった。Jリーグ開幕当時は、まだ、いわゆる「ジーコイズム」を注入している段階だった。

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史上初の「2-0は危険なスコア」は1993年6月23日にカシマスタジアムで開催されたJリーグ・サントリーシリーズ(1st.ステージ)第12節・鹿島アントラーズvヴェルディ川崎だ。2-0でリードした鹿島アントラーズは50分に大黒柱のジーコをベンチに下げた直後にヴェルディ川崎の猛攻を受け、64分、74分に連続失点している。

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典型的な「2-0は危険なスコア」が3日後に。史上初の「2-0は危険なスコア」から逆転勝利をしたのも鹿島アントラーズ。

1993年6月26日に開催されたJリーグ・サントリーシリーズ(1st.ステージ)第13節・ガンバ大阪v鹿島アントラーズ。つまり史上初の「2-0は危険なスコア」から、わずか3日後に絵に描いたような「2-0は危険なスコア」が再び発生する。31分、48分に得点しガンバ大阪が2-0でリード。しかし、そのわずか2分後の50分に鹿島アントラーズが得点。そのまた2分後の52分に同点に追いつくと63分に一気に逆転、76分に追加点で4-2とし、鹿島アントラーズが電光石火の逆転勝ちを収めた。この試合はスポーツニュースでセンセーショナルに報じられた。これぞ「皆さんが思い描く典型的な『2-0は危険なスコア』ゲーム」だろう。そして、鹿島アントラーズ・サポーターは、1993年6月に経験した2つの試合で衝撃を受け「2-0は危険なスコア」と痛感した。

またしても短時間に同点に!ジェフユナイテッド市原は1993年8月に2つの「2-0は危険なスコア」。

1993年8月14日に開催されたJリーグ・NICOSシリーズ(2nd.ステージ)第5節でジェフユナイテッド市原は4分、16分にオッツェが連続得点し2-0でリード。序盤のリードで気が緩んだのか、当時はお荷物チームと呼ばれた(8勝28敗得失点差-52)史上最弱の浦和レッズに34分、47分に得点されハーフタイムを2-2で折り返した。しかし84分に突き放し逃げ切り勝ちを収めている。

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同じく8月の25日に開催されたJリーグ・NICOSシリーズ(2nd.ステージ)第7節で横浜マリノスに0-2とリードされたジェフユナイテッド市原は69分、71分の連続得点で同点に追いつき、試合をPK戦に持ち込んでいる。この試合は栃木グリーンスタジアムで開催され多くのサポーターが千葉、東京、横浜方面への終電を逃し宇都宮駅で野宿したので一般紙でも大きく報じられた。ジェフユナイテッド市原にとって思い出深い8月だ。

さらに「サッカーは油断大敵・強いメンタルが大切」を強く印象付ける続・ガンバ大阪の「2-0は危険なスコア」。

史上初の「2-0は危険なスコア」からの逆転負けを喫したガンバ大阪は、このシーズン2度目の「2-0は危険なスコア」を経験する。1993年9月3日に開催されたJリーグ・NICOSシリーズ(2nd.ステージ)第9節で43分、49分に失点したガンバ大阪は53分、61分の連続得点で同点に追いつく。さらに、この試合では「同点延長戦突入が濃厚」と思われた89分に清水エスパルスが決勝ゴールを撃ち込み、試合を終わらせている。「2-0は危険なスコア(油断)」と「試合終了前は集中力が途切れる(油断)」の合わせ技で「サッカーは油断大敵・強いメンタルが大切」を改めてファン・サポーターに印象付けた

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ここまで読んでいただいてお分かりの通り、1993年のJリーグでは2-0から1点を取り返すと、その後、10分以内に同点ゴールが生まれるゲームが4試合もあるのだ。そのうち2試合は2分以内に同点ゴールが生まれている。

当時は「名門」と呼ばれた堅守・横浜マリノスが「魔境」カシマスタジアムで味わった「2-0は危険なスコア」。

さらに、1993年11月13日に開催されたJリーグ・NICOSシリーズ(2nd.ステージ)第12節では、0分、19分にディアスの得点で2-0とリードした横浜マリノスが直後の21分にアルシンドの得点を許すと総崩れとなり、69分アルシンド、77分ジーコに得点され逆転負けを喫している。当時のカシマスタジアムは日本で唯一の全スタンド屋根付きサッカー専用球技場。どの試合も超満員。チアホーンの大音量が屋根に反響し屋根が震える音が発生する等、これまでの日本サッカーでは体験し得ないホームゲームの圧力を作りアウェイサポーターに「魔境」のように恐れられていた。私は、この試合を現地で観戦していたが、カシマスタジアムの特別な雰囲気が「2-0から2-1になったときの追い込まれるメンタル」の印象を強めていたことは間違えない。そして、まだ歴史の浅いプロサッカーは野球と同じようなセオリーの確立が求められていた。

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Jリーグブームの1993年6月が原点。ガタガタになる短時間での連続失点が目立ち大きく報じられ、日本全国のサッカーファンは「2-0は危険なスコア」と感じた。

さて、今、2020年に立ち返ってみよう。すでに多くのサッカーファンやJリーグクラブのサポーターは「2-0は危険なスコア」ではないことを知っている。しかし、前述の通り「2-0は危険なスコア」伝説はコロナ禍で蘇った。なぜだろう。

Jリーグブームの影響力は根強い。いまだに当時の常識に支配されている人が多く存在する。

例えばコロナ禍でのプロスポーツの活動のニュースが報じられるとき、Jリーグのイメージ写真として、いまだにカズの写真が報道番組で使用されることがある。それくらい、当時を知る世代にとってJリーグブームから1995年までの記憶は鮮明であり影響力が大きいことが挙げられる。例えばジェフユナイテッド市原のホームゲームが国立競技場で開催され53,570人を集めるくらいの空前のブーム、いや社会的関心事だった。当時の記憶が常識となり上書きされないままスタジアム観戦から離れ、今に至っている人が多数いる。Jリーグブームが去った後も、その人たちの口コミで影響された人は世の中に多く存在する。

「2-0は危険なスコア」と強く感じた背景がプロ化前の深刻な得点力不足にあった。

日本のサッカーがプロ化する以前の1980年代〜90年代にかけて「サッカーは得点が少なく退屈」というイメージが定着していた・・・いや、それは事実だった。

1977-78シーズンを制したフジタは日本サッカーリーグ(JSL)で1試合平均3.56得点という爆発的な攻撃力を有していたが、これは例外。その後1980年代から90年代にかけての日本サッカーの得点不足は深刻だった。どん底だったのは1987-88シーズンの日本サッカーリーグ。1試合平均得点(2チーム合計)1.8点。スコアレスドローが多く「1試合で2得点を見られたら儲け物」という有様だった。

Jリーグはプロサッカーを成功させるために得点力強化をテーマに、ルール改正まで行った。そしてファンは喜びサポーターが急増した。

「サッカーは野球と比べて得点が入らないからつまらない。」
「金を払って見に行っても0-0だと二度と行かない。」
日本サッカーのプロ化が報じられたとき、多くのスポーツファンはこのように揶揄した。Jリーグを成功させるために、スタジアムにやってきたファン・サポーターに得点という喜びを提供し満足してもらわなければならない。日本サッカー協会内に設置された「プロリーグ検討委員会」は検討を重ねた。

Jリーグの狙い通り「Vゴール」と「ボーナス勝ち点」が落ち着かない攻撃的な試合を激増させた。0-2でも試合を捨てる選手はいなかった。

若い世代のサッカーファンには信じられない独自のルールを、1992年にJリーグは導入した。「Vゴール」と「ボーナス勝ち点」だ。このルールにより、Jリーグの各クラブは攻撃的なサッカーに転じた。得点力が増加し観客は急増した(常勝軍団だった堅守の名門・横浜マリノスはタイトルから見放された)。

「Vゴール」とは「90分間で勝敗が決しなかった場合、延長戦に突入し先に得点したチームが得点した時点で勝利と決定する」ルール。それに加えて、当時は延長戦で決着がつかない場合はPK戦を行った。これにより、必ず(PKを含む)得点シーンが生まれることが保証された。そして各チームは、次節へのスタミナ面も考え、試合を90分間で終わらせようと、積極的な攻撃を展開した。

「ボーナス勝ち点」は1992年のJリーグヤマサキナビスコカップでのみ採用された。「90分以内で2得点挙げる毎に、勝敗に関係なくボーナス勝ち点1が加算される」ルール。予選リーグは、このボーナス勝ち点を加算したクラブにより順位が左右された。

当時のJリーグは、どのクラブも90分で決着をつけるため、そして1992年のJリーグヤマサキナビスコカップではボーナス勝ち点を得るために、最初から最後まで90分間、貪欲に得点を狙いつづけたのだ。
これは「プロリーグ検討委員会」〜Jリーグが、プロサッカーを成功させるために描いた青写真通りの展開。そして、その効果が多くの得点シーンを生み出し日本社会に空前のJリーグブームを巻き起こした。「得点が入らないからつまらない」と言う人は、いつの間にか姿を消した。

忘れてはならないのはプロとしての責任を果たそうとした当時の選手たちの頑張りだ。

日本サッカーのプロ化によりプロサッカー選手となった選手たちは「最後まで観客を楽しませよう」と試合終了のホイッスルが吹かれるまで攻めに攻めた。今、コロナ禍でJリーグが中断しているため、Jリーグ開幕当時のことを振り返る番組が多く公開されている。その中で水沼貴史(当時は横浜マリノスでプレー)は「責任」という単語を多用している。選手たちはプロになった「喜び」以上に、何がなんでもJリーグを成功させなければならない「責任」を背負って全力でプレーしたという。

0-2でリードされても下を向くことなく攻め続けた。そして、2-0でリードしても、安全策を採るのではなく「もっと面白いサッカー」を披露するため果敢に攻め続けた。そこで「2-0は危険なスコア」と強く感じさせる短時間での同点劇や逆転劇が生まれたのではないか。

「得点が入らないからつまらない」と思われていたサッカーが度重なる得点に沸き返った。0-2からでも一気に同点に追いつく、逆転してしまうひたむきなプレーが見る者の心を揺さぶった。

「ファンを喜ばせたい」という選手の責任感が、そのような試合展開を生み出した・・・まだまだ、リードを守るために試合のテンポを鈍化させるようなマリーシアが定着していなかった未熟な日本サッカーは2点のリードを守りきれなかった。鹿島アントラーズですら2点のリードを追いつかれた。・・・そんな1993年6月。

「2-0は危険なスコア」は草創期のJリーグの努力、選手の責任感から。

あの頃はJリーグブームに興奮していたであろう当時のトレンディな人たちの「2-0は危険なスコア」という言い伝えが今でも生きており、その思い出を信じ続ける人がいる。「ロストフの悲劇」に続いて、再び伝説がコロナ禍で蘇った2020年の春・・・そう、私は考える。






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