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そもそもQuestion〜クオリア以前問題〜


クオリア問題


クオリア(英語: qualia〈複数形〉quale〈単数形〉)または感覚質とは、『脳科学辞典』によれば、感覚的な意識や経験のこと、意識的・主観的に感じたり経験したりする質のこと。
『広辞苑』によるとクオリアは「感覚的体験に伴う独特で鮮明な質感」であり、「脳科学で注目される」概念である。
Wikipediaより


各個人、それぞれの認識・感覚・感じ方・見え方・解釈は別もの。
1人として同じものを捉えてはいない。

1人ひと宇宙というけれど、本当にまったく持って完璧に全然違う。

子どもの頃、よく考えていた。

「私が感じている赤は、本当にみんな赤に見えているのだろうか。
もしも、私にとっての赤が他の人とって青に見えていたとして、それをお互いに赤と呼んでいたとしても、コミュニケーション的に何も問題はないから、絶対にわからないのでは?」

まあ、こんなのがクオリア。
色だけじゃない。

感じているもの全て。
箱根の遠足で同じ場所から同じ景色を見たとしても、Aさんは芦ノ湖、Bさんは山の緑、Cさんは遊覧船、Dさんは自動販売機、なんて見ているものは全然違う。

味だってそう。
同じみかんを食べて、甘いと感じる人もいれば、酸っぱいと感じる人もいる。

同じ映画を見て、悲しくなる人もいれば、楽しくなる人もいる。

同じ人への印象が、「怖い」と思う人もいれば「優しい」と思う人もいる。

同じルールが、「決まってて楽」と感じる人もいれば「窮屈」と感じる人もいる。

千差万別。
1人として同じようには捉えられない。

捉えられないのに、教育や社会通念により「たぶん自分と同じ」と、それぞれが思い込んでいる。
本当は相違や齟齬がありまくるのに、なんとなく同じであろうという感覚で話している。
まるですれ違いコントだ。

テレパシーでも使えない限り、本来は人類総アンジャッシュ。

だからコミュニケーションはよほど注意しなければ、ほぼクオリア違いで成り立つわけのないところを、会話以外の表情や雰囲気や空気感などで補完して成り立っているのだろう。

そして、それぞれがその経験をストーリーの中に組み入れる。
しかも、ボキャや知識や経験や概念などの「知っていること」にもすごい個人差があるので
解釈もまた違ってしまう。

噂ばなしひとつとっても、軽く浅く解釈してる人もいれば、なかなか穿ったものの解釈をしている人もいて、こっちは勝手に同調したりへし折れたり傷ついたり。

重大ごととして、心に刻んでいつまでも覚えている人もいれば
軽く流して、5分後にはきれいさっぱり忘れている人もいる。

それでも、人は枠を作って定型内に収めたがる。
承認欲求がベースにあるから分類・分析・ジャッジ・所属意識が強いのだ。

クオリア・捉え方が80億通りあることを、なかったことにして。
それもしょうがない。

ビーバーがダムを作るかのように「習性」なのでね、人間の。
それは置いといて。



それよりも脳みそ問題


その、身体で感じる感覚というのがね。
そもそも疑問なんです。

映画マトリックスや、メタバース計画なんかで、脳に電極つないで信号を送って、
仮想現実を見させる、なんてストーリーがあるけど。

映画や漫画でよくあるプロットで、フィクションだけじゃなく
今やどこかの企業が真面目に研究しているっていうのも聞いたことがある。

脳みそだけを水槽だかなんだかに保管して、あとはコンピューターにつないで
アバター10体使えるようにするだのなんだの。

でもね、どうやって?

今現在、身体を持っていて実際に現実の景色や物質を五感で
見て、聞いて、嗅いで、味わって、触れて、それで知っているのなら
身体と脳にインプットされてるので、感覚は伝わるかもしれない。

でも、五感で感じたことも、ましてやそれを見て何かしら心に刻んだこともないような
知らないことなら、どうやっても電極で脳に情報を送るなんてできないと思うのだ。

もっと言えば、身体を無視するのであれば寝ているのと同じ。
ってことは、さっきのクオリア同様にそれぞれが好き放題に「夢を見ている状態」なだけなので、統制が取れるはずもなく。

だって脳の中なんか誰も見れないから。

脳が見ている何かを、モニターかなんかで投影して確認するのなら、そもそも人間を使う意味すらない。コスパ悪すぎ。
それなら初めからAIロボット作った方がいいと思う。

身体の五感からの情報なくして、脳は機能しない。

脳が勝手に電気信号出して、体を動かす司令を出してるわけじゃなくて
五感からの情報を集積して、反応させてるだけなので無理だと思います。

なんとかという博士の準備電位の実験でも、脳が指令を出す0.35秒前にもう反応してるらいいじゃないの、脳が人体の司令塔って神話はもう何十年も前のものだと思う。

天動説みたいに。もう忘れましょう、そんな神話は。
それも、まあ置いといて。


そもそもクオリアQuestion?


っていうか記憶障害とか、脳の機能障害とか、なんでもかんでも「脳の機能」と思うことそのものが、「そもそもクエスチョン」なのだと思ってます。

臨死体験(脳が機能していない状態からの復活)した人や、前世の記憶を持つ子どもなんかの話が国籍問わずにわんさかあって、それらが大体一致していることが多いけど、
この件はどう解釈するのさ。

それから、人格障害の人。自分の中に複数の人格が現れてくる人。
性別も年齢も経験も記憶も別々に持っていて、それらが交互に現れるという。

ある患者さん(女子)は2歳?だったかな、幼少期の頃に作り出した人格は17歳の男の子だったという。えー。そういうこともあるわけ。

そういう経験を持つ人の記憶ってさ、一体どこからくるわけ。

私は脳科学の研究結果や話が好きで、興味深々で調べたりすることがある。
その研究結果や解説に「ほほう!すげえ!」と一瞬納得するんだけど、その後すぐに「ん?」となる。

だってさ。
脳みその中、いくら探したってただの肉塊(表現よくないけど)なだけでしょう。

その中にいくら探したって「人格」は入っていない。
もちろん、どれだけ解剖したって「記憶」は入っていない。

どこを探したって、その人の「思考」は入っていない。
どこを探したって、その人の「クオリア」は入っていない。



それでも、思考やアイデアは「頭の中」に入っていると表現する。
私もよく、そう言うし。

でも、このカリフラワーみたいな内蔵のどこに

見えた映像が入ってるの?
聞こえた音が入ってるの?
触れた感覚が入ってるの?
嗅いだ匂いが入ってるの?
味わった味が入ってるの?
ぐずぐずな思考が入ってるの?
キュンとした思い出が入ってるの?

どこに?どこに?どこに?どこに?

それらの記憶ってこの中には入ってないでしょう。

これは機関であって、クオリアそのものは別の場所。
場所っていうか、データとして偏在しているというか。

脳は五感と連動して、身体として動くけれど
精神活動とは別。
いや、それとも連動しているけど、クオリアそのものとは別。

臨死体験者が、よく病院で自分の姿を見ていたと証言したり
人格がコロコロ入れ替わったり、経験したことのない記憶があったり。
そういう身体を使っていないで知っている記憶と
見た聞いた味わった臭った記憶、触れた感触や温度の身体を使った記憶。

結構な量のデータになるわけなんだけど。

人間は発達した脳のせいで「ストーリー」に悩まされているけど
それ、本当に脳のせいなのかしら。

この間まで、私も記憶の保管場所が「脳」だと思っていたけど
この頃「そんなバカな」と疑うようになって
記憶ってのは、そしてクオリアってのはいったい、どこにあるんだろう?
と疑問に思っていたわけです。

結論として「この身体の中にはないらしい」ってことです。

身体の感覚から感じたり思い出すことはあっても、
それらの「感じ・感覚・記憶」そのものは、この中には入っていない。

じゃ、どこに?

どこでもない。
どこにもない。

でも、あるんだもん!

ああ、もうね。
矛盾しかない。

時間ってないなあ、と気づいた時もそうだったけど
矛盾しかない。

ないのよ、あるのに。

考えると吐きそうになリマス。

という、そもそもQuestion。
クオリア問題以前に、そのクオリアはどこにあるわけ?
問題が気になっているのでした。






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