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同じ人の夢をみる(Ⅲ)

パンドラの箱、再会

[続き]


優しい夫のおかげで無事に数年が経った。
戦争は始まったものの、彼女にはとっては内心は平穏な日々だった。

日常の大半は夫のことや家事について考え過ごし、
心にあったわだかまりも薄くなり、だんだんと心も安定してきていた。
子どもはいなかったが、夫婦の仲はいつも穏やかで円満だった。

夫の優しさがいつも彼女を支えてくれた。

戦況も悪化し夫にもとうとう召集令状が来てしまった。
そんなときも自分の安全より妻をことをとても心配していた。

夫が出征したあと、ひとりになっても、しばらくは安定した心でいられた。
夫の無事を祈り、こちらの無事を知らせるために手紙を書いたりしていた。

ある夜、爆音がして空襲警報を聞いた時、咄嗟に身構えた。
爆音に恐怖を感じた。死ぬかもしれない、と思った。

そしてあの時の恐怖を思い出してしまった。
途端にひとりでいることの不安にいまさら気づいてしまった。

そのあと連鎖的に抑えていたつもりの恐怖心が爆発していった。
封印したパンドラの箱を解くかのように、様々な思いや気持ちが一気に噴出した。

憎しみ、怒り、悲しみ、惨めさ、疑い、恐怖、欲望、背徳感、罪悪感…。

そのどろどろな感情が噴出は重くて硬い岩のようになり、一気に彼女めがけて落ちてきた。
彼女はその場にうずくまり、身体を固くししばらく震えていたそうだ。

警報の音がおさまったころ、その封印の感情の箱の中に、
同じく封印していた別の感覚を見つけてしまった。

あの春の夜、
あのバス停で感じた愛の広がりのような確信と空気感。
それを思い出した。

どうしても彼に会いたくなった。

どうしてこんなに大事なことを忘れていたのかしら。

そう、本当に大事にしていたのはあの優しい夫ではない。

彼しかいない。
何があっても憎めない。
彼がいい。

理性が警笛を鳴らすのに、それでもやっぱり彼がいい。
どうあっても、もう抗うことはできなかった。

こうなる前の、あの時に戻りたい、そこからすべてやり直したい。

衝動は止められなくなり、気づくと足は彼のいる街に出向いていた。

夫を裏切るかもしれない。
でも止められない。

とにかく、彼に会いにいく。

彼は居酒屋にいた。
かなり飲んでいる様子だった。
彼自身も心が壊れているのがわかった。

夜の街。
2人で歩く。
しばらく無言で歩き、やっと口をひらけば
また上滑りの言葉ばかり。
まるであの時の会話のように。

また茶番劇。

本心になかなかたどり着けない。
言葉に意味はない。
やっと言葉を超えたとき、またあの時のような感覚が二人を包んだ。

お互いに無言のうちにある決心をする。

そして彼の家に向かい、ひとつのグラスにお酒を注ぎ、変わるがわるに一口ずつ飲みながら、これまでの本当の気持ちを打ち明けあった。

彼はあの時のことを知っていた。
ちょうど訪問したとき襖の向こうの異変に気づいたのだ。

止めようと思った瞬間、
また不思議な感覚になった。
彼女と共振したのだ。 
彼女の感覚や心が何故か自分のことのように感じとれた。

だけどもちろん本人にそんなことが理解できるはずもない。

それどころか、あの時
彼女自身が身体から離れ
屈辱を受けているのを意識が眺めている、
その感覚までも共振してしまった。

彼はそれを受け止めきれず、その場から駆け出してしまった。 

信じられなかった。
自分が情けなかった。
そして自分を惨めで、残酷で卑怯で無価値な男だと呪った。
理解できない感覚を必死に理解しようともがいた。

そして彼も、彼女は自分自身であることを知った。
どうすることもできなかった。
理性では到底、理解不可能だった。

彼女の方も、それをなんとなくわかっていた。
そこに彼がいたような気がしていたから。 

彼の口からそれを聞いて、怒りや憎しみよりむしろ安堵をおぼえた。
慈愛のような感覚に似ていた。

そして、言葉では表現しようのない、なにか大きなものが自分たちを動かしているのだろうと悟った。

沼の神話


二人はその日、結ばれた。
もう何もかもすべてを捨てて。

彼女はもう何にも抗わず、大きな何かに身を委ねた。

私は仏のような夫を裏切る。
夫はきっとそれでも自分を許してくれるだろう。
だけど私はきっと私を許さない。それでいい。

それでも自分の心に従う。もう嘘はつけない。

あの誠実で真摯で優しい夫を簡単に裏切り、
彼と本当の意味でひとつになった。

至福感と罪悪感を
同時に抱いて。

あの日の忌まわしい出来事を払拭するかのように、情熱的に神秘的に。
静かに溶けあうように。

この瞬間が今生で最初で最後
そして永遠に刻まれることを知っていた。

彼女は言った。
「これじゃまるで陳腐な小説のラストね」

彼の
「ああ。だから人生は滑稽なんだ。」

という言葉を最後に
文章は一度終わる。


(そのあと、二人がどうやって亡くなったかはわからないが、心中したらしい)

そのあとの描写を転載しておく。
素敵な文章だった。


罪の沼


あれから、
私たちは地獄にいる。

そこは甘い香りのする沼の中。

身体を拭っても拭っても
甘い粘液のような沼の水がとれない。

気づくといつも二人で沼の中にいる。

胸の辺りに
常に重い気だるさがある。

はっきりとしない意識の中で、何かを思い出そうとすると、
その気だるさの重みが増し
沼の中に沈みそうになる。

お互いが、
どちらが自分と分けることもなく、
沈まないように、
思い出さないように、
お互いだけを確認しあって
ただここに存在している。

罪の甘さ。

まるで潰してしまった桃の果汁のように、
とろとろに甘くて粘着質。

醜くて汚い。
それなのに甘く美しい。

その醜い美しさの中に圧倒的に魅了され、そして囚われてしまった。

愛を固形化してはならない。

いま
私たちはひとつに溶けて
甘い地獄の沼にいる。

この沼の中で、お互いを思い出すこともなく、
また新しい夢をみる。


沼の中の夢の住人 

以上で締めくくられた。

気づくと三万文字近い文章を一晩かけて一気に綴っていた。
ノンストップで勝手に書いていたので、右手が筋肉痛になった。

この文章、書きっぱなしで放置して2年近く経っていた。

なんとなく、読み返したら
私のみる「彼」のシリーズものの夢日記と
この彼女の話しがリンクしたので「あ」と思い出した。

私の方は昔、
現実でのこの彼と別れるとき思ったことがある。

「好きすぎて、私はこの人といたらきっと死んでしまう。別れよう。」
と。
死のうと言われたら、そうね、と軽く返事をしそうだった。 
もちろん、そんな重たい付き合いでもなかったし、お互いなにも抱える闇もなかった。
それなのに、ふとそう思った。

私はなぜか子どもの頃、8歳かそこらだったが、
焼きつくされるような大人の愛、忍ぶほどに激しくなる情愛ような感覚を知っていた。

なぜかわからないけど理解できた。

今度はきっとそうはなるまい、と冷静な気づきがあった。
彼女の物語と、最後に綴られた文章にハッとした。

私の見る「彼」の夢は、沼にいるふたりのみる夢。

そして、あの彼女たちもおそらく、夢の中の方なのだ。
実際にいたのか、ただのひらめきなのかはもうさほど問題ではない。

この沼のなかの二人はもっともっと
果てのない時間もない
どこかわからない場所にいる。

沼の二人の夢物語は彼女たちだけではなく、
今までも、もっと無数にいろいろな形で表現されていると思う。
この物語だけではなく、沼の二人はもっと無限の夢を見ている。

陰陽合わせ待つ
つまり二元の世界、
ここ、そのものかもしれない。

光と闇
与えること奪うこと
軽さと重さ
甘さと苦さ 
天国と地獄
呪いと祝福
男と女
愛と罪

愛を固形化してはならない。

このもとの二人は誰だったのかはわからない。

イザナミとイザナギかもしれない。
アダムとイブかもしれない。

そういう存在があるかはわからないけど原初の夫婦のように思う。

人格をもつ魂というものにはいつもしっくりこない。

もし魂と呼べる何かがあるなら
無数の夢を続けている、この沼のようなものではないだろうか。

愛や罪悪感を感じるようにできている私たちは、
彼らの沼のなかで見られている夢の方なのかもしれない。

そして、自らを思い出すこともできない甘い地獄の沼のなかで
彼らはきっと幸福に満ち足りている。


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