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愛と苦しさと美しさと


この頃「愛」と「苦しみ」がマイブーム、というか自分のテーマ。

「愛」と言っても「愛情」とか「慈愛」とか「自愛」とかいろいろある。

人間にとって相対的なこの二元世界では、
「愛」の対義語は「苦しみ」なのではないか?と思う。

そして人はそういう「苦しみ」の奥深くに「美しさ」を見出す。

だから今も昔も
悲恋の物語や歌が好まれる。

物語の中の、メリハリ以外に
登場人物の紆余曲折や一喜一憂に自分を重ね合わせる。

あんな不幸な恋愛はしたくない、と言いながら 
そこに「美」を発見して苦しみに惹かれていく。





「愛情」エゴ的な愛


「愛」+「情」

「情」という文字が入ると、なぜだか急に相対的で利己的で
エゴイスティックな匂いがしてくる。
そんで重みを感じる。

「愛情」をキロいくらかで計り売りしてるような感じがする。

だからか、相手が素直に受けとる場合と、
重くて受けとり拒否する場合があるのかも知れない。

これは人間独特の感情のように思う。

「愛情」をかけることは、相手に愛を注ぐと見せかけといて、
そのまま自分のエゴをも満たすためでもある。

もちろん、
そんなことはいちいち顕在化しないけど。

「愛したんだから愛されるべきだ」という権利の主張や
「愛してるんだから、あなたも私を愛すべき」っていう義務の強要が発生したりする。

「愛」があることを確かめたいのに、見えないもんだから確かめられない。
あるはずと疑って、それを求める。証拠を見せろと。

なんとかして形で確かめたくて。

だから無意識に愛の計り売りして、相手を試そうとする。

抵抗、とも言えるかも知れない。

素直に受けとってもらえたなら(エゴが)満たされて何も問題ないが
受けとり拒否された日には、枯渇したエゴが大暴走する。

「苦しみ」の正体は自分でどうすることもできない、エゴの枯渇から始まる。

「与えたぶんを返せー」

とたんに厳しい取立てがはじまる。

こじれる。
もつれる。
空回る。

えらいことになる。

エゴは愛されたくて愛されたくて
所有しようと用意していた心の場所に、
モヤモヤとどろどろを代替え品として埋めてしまう。

ということは、つまり
このモヤどろの根源は「愛」

質量のある愛。
苦しくて重たい感情。
人間だけの情。


「ベニスに死す」ビョルン・アンドレセン


残酷な美


美しいものを愛することで醜悪で狂気じみた苦しみに変わることもある。

映画「ベニスに死す」では、老作家がバカンス先で美しい少年に出会う。

子どもでもなく大人でもない年頃。

まだ男とも女とも
はっきりと性別が確定しない体の線の細さ。


無垢な子どもっぽさと
芽生えかけた大人っぽさと
ピュアだからこその妖艶さ。

成長の過程での少年の
一時的なこの状態は
今しか愛でることのできない花のようで
刹那的で儚くてより神々しい。


二元の世界でありながら、どちらにもまだ分けられないその曖昧な状態に
何か神聖さを感じる。
そして
神々しい妖艶さに破壊されそうな匂いを察する。
近づいてはいけない。


触れてみたい
でも触れてはいけない

独占したい
所有したい
しかし
穢してはいけない

所有などすれば
その神聖な美しさの輝きが
失われていくことを本能的に知っている

神の庭に美しく咲いている薔薇は
手折って持って帰って
部屋の花瓶に挿しても
すぐに枯れてしまうだけ。

人間には手に負えない。


「ベニスに死す」ビョルン・アンドレセン


少年のその神聖な美しさと妖艶さに魅了され

理性でどうしても抑えることができず

気づけばずっと目で追い
気配を感じようとする。

これまでの理性的な「自分」が制御不能になり崩壊していく恐怖。

ひとつひとつ積み上げてきたものが崩壊する恐怖。

だからといって
どうすることもできない。

年齢、性別、立場、あらゆる観点から見ても、
そんな不埒な心で
少年に接触することは神を裏切る行為だ。

自分への不審。

老作家の心に静かに葛藤が生まれる。

だんだんと、狂気ににた心情が芽生え、それでもコントロールできない。

美しいものに惹かれた自分を否定していく。

少年そのものは、老作家に何もしていない。 
もちろん、何も知らない。

ただ残酷なほど美しいだけ。

捉えて計り売りすらできない
行き場のない感情は

狂気を孕んだ破滅的な愛を引き出す。

少年の無垢な美しさは
神聖さと反比例し悪魔のような残酷さも併せ持つ。

神聖で悪魔的な「美しさ」の正体は

何にも分類できない曖昧さと
少年期の一瞬の儚さだと思う。

一瞬の儚さ
何ものでもない曖昧さ

その捉えておけない
美しさ
触れることのできない神聖さ

そしてその究極の「美しさ」と同じ質量の「苦しみ」

神の庭に咲く花。
まるで幻。

この物語
50年経ってもやはり
人の心に響く名作です。



「慈愛」無条件で質量のない愛


「慈しむ」+「愛しい」

観音様や聖母マリアにイメージされるように、 
母親のように、いや、祖母?
(母は子に対して盲愛することあるもんね、でもそれもありかな)

ただひたすらに
何があっても
どんなことがあっても

見返りを求めることなく
慈しみ、許し、信頼し、温かく包みこむ

質量がなく
ゆるくて軽いのに
頼りがいのある

絶対的安心の愛

「苦しみ」さえも微笑んで抱きしめてくれるような、そんな愛だから

とんでもなく巨大で無限で
計り売りなんてできっこない。

計ったところで無限に湧いているので
計って試そうという抵抗すらなくなる。

無抵抗。
抗えない。
受容のみ。

私たちの世界の根底は、この慈愛でできている。

何をしても
どんなに苦しんだとしても
許されている慈しみ。


「愛」に気づくための「苦しみ」を経験することに意義があるからかも知れない。

「ベニスに死す」のあの少年に惹かれて苦しむ老作家のように。

理性のブレーキをかけないと自爆しそうな
増大したエゴのエネルギーを抑えに抑えて。

誰にでもあるでしょう。
自分を制して、抑圧させた苦しみの記憶。

もちろん、背景が愛でもなんでも苦しいのは誰だっていやだ。
苦しみからは逃れたい。

私も死にたいほど苦しい時があった。

もう、苦しいのは金輪際ごめんだ。

だけど、この頃思う。

苦しがってもんどり打っても、結局は慈愛の上で転がっていただけ。

もしかして
人間の魂はこの「苦しみ」もあえて味わいとして織りこんで、
転生してきているのではないだろうか、とさえ思う。

この世界に
わざわざ人間として生まれてきたのは
質の良い苦しみを味わうためなのかも。

「ちょっとあんた、この苦しさ、もしかして
わざと?」

自作自演の
甘くて苦い味わい。

魂の奥に隠れてる何かに問いただしたくなる。

(とはいえ、私ゃもうほんとごちそうさまです)


外に愛を求めず、まずは自分を愛してやれ。


「自愛」もう自分を許してやって

すべてが根源とつながっていて
そもそもが慈愛の上で転がってるだけなら
素材はみんな同じ。

慈愛と自愛って結局は同じじゃないかな、と思う。

だったら、まず
自分を愛してやってくださいまし。

自分を愛せ、って言葉にすると照れ臭いけどさ。

愛そうとしたり
好きになる努力とかいらないの。

ただ、なんでもいいから許してあげるということ。
カッコつけずに。
呆れていいから。
やけくそでいいから。
ため息まじりでいいから。
まっさらになるまで。

私はこれでだいぶ 
自分を許すベースができました。

こんな感じで独白します。

「私はポンコツですよ、
ダメダメですよ、そんでダメで何が悪いって逆ギレもしますよ、タチ悪いですよ、面倒くさいですよ、取り柄もないし、何も長続きしないし、友だち少ないし、無気力だし、理性もないし、頭もよくないし、財産もないし、歳もくってて、人に自慢できるような武勇伝もスキルもないし、恥もいっぱいかいたし、何もできない、ほんとポンコツですみません…」


そして、ふぅーとため息ついてね。

あれ?って思ったのさ。

「え。人と比べてって?私がポンコツだっつう話にどうして人が登場したわけ?」

すごい違和感だった。
今さっきまで何の独白してたんだろ。

ここは私の独白ステージ、人は全く関係ないでしょ。

「おい。エゴ。
途中で人とか放りこんでくるな、紛らわしい。
ただ純粋にね、私はポンコツだって言ってんの。」

言い切ってみた。

そしたら自分が 
ポンコツであることに
何の不思議もなくなった。

するとね。

なんだかちょっと愛おしくなってきました。
ポンコツ潔し。

「こんなポンコツなのに、今までよく生きてこれたなぁ、ほんとお前、よく頑張ったなぁ、逆にすげえ…おぉよしよしえらいな」

ちょっと涙も溢れたりしてね。

自分を愛する
「自愛」の糸口が見つかりました。

自分をなかなか愛せない、許せない人、
ぜひやってみてほしい。

少なくともまっさらになるとエゴが席を譲ってくれるみたい。

(ぽ、ポンコツじゃしょうがないよねえ、ってねぎらってくれる笑)

愛すべきポンコツ。
ポンコツなのにがんばってる自分。

ポンコツなのに必死で苦しがってる自分。

それが「私」なのよ、可愛いじゃない、ってね。
許してあげてくださいね。


はじめのテーマからだいぶ逸れたけど、おしまい。

※古い映画だけど
ビョルン・アンドレセンの美しさは今見てもハッとします。
なんと「ベルサイユの薔薇」のあのオスカルのモデルも彼だそうです。




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