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何とかなるの方則


色々と探求していると
ときどき、思考の隙間から「お!」と言う閃きがある。

思考の向こうからやってくるので、後で言語変換して
言葉に直して考え直してみると

全く根拠ないし、矛盾するし、断言もできない。
だけど、どう考えてもそうなのだ。

それが「何とかなるの方則


「本気で望むと手に入る」の方則


ひと通り探求しているうちに、引き寄せの方則も一度通過した。

と言うのも、
これはかなり前(うん十年前)から感じていたことがあって、それは

「(何かを)本気で望むと手に入るらしい」と言うこと。

そのころは引き寄せの方則など聞いたこともなかった。

アンティークやビンテージものが大好きで、ファッションやインテリアや
お洒落雑貨に興味があるお年頃、物質欲まんまんの頃。

既製品ならともかく、ビンテージやアンティークの洋服やバッグは
そうそう欲しいものが見つからない。

それでも、古い映画やビデオで見た可愛い服やグッズを
ポワンポワンと頭の中で「こんなの欲しいな」と想像してばかりの
しばし夢みがちなりし日々。

すると、忘れたころにかなり近しい感じのものが手に入ったりする。

「こんなのも素敵、あったら素敵、でもさすがに無理かな、はは!」と思ったものまで
突然、え、何で?というタイミングでプレゼントされたり。

お金や売上についても「あとこのくらいあると良いんだけどなあ」とポワンポワンと考えてるとちゃんと、辻褄が合うような金額が入ってきたり。

何度かそういうこともあって
理屈はよくわからなかったけど、なんかそういうもんなんだろうなと思っていた。

それを人に言ったら
「はは、じゃあ何で彼氏できないんだろうね」と一笑されたが。

(本気で望むと手に入る、手に入らないとしたら本気ではない)ことは漠然とわかっていた。

本気というのは、自分が自分のために絶対的に「幸せになれる」安心して欲しがれるもの。

例えば「あ、この服、ぜったい私に似合う!これ着てあのバッグと靴と合わせて・・・」なんて完成図を描いてウキウキできるのは本気。気楽に本気。

対して、本気でないものとは

「あの人素敵だけど、一緒にいて楽しいけど、もし付き合ったら時間とか束縛されるかも、親とか友達に会えって言われたら今はちょっとめんどくさいかも」という打算が入ってしまう時。

少しでも何か憂鬱になるネタが湧いてくる時は本気ではない。
口先だけで「あの人いいよね」って言っているだけ。

(でも思考の中の自分は、その時その人のことを好きだと思っていた)

その時は打算なんて見分けられなかったけどね。

本気の気楽な願いは叶うけど、打算が入る願いは本気でないから叶わない。

これは引き寄せの法則に似ている。
若かりし日で、そんなこたあ知らなかったけど。



「引き寄せ」はないの方則


しかし
私は「引き寄せ」はないと思っている。

思考や波動でものは引き寄せられない。
残念ながら。

自由意志すらないのに、ましてや打算だらけの思考でものは引き寄せられない。
そんなことできたら、宇宙の秩序は崩壊する。

なぜなら、人間も現象のひとつに過ぎないのだから、誰か個人の思念ごときで
いちいち現実は変わらない。

それどころか、引き寄せの思考難民・波動難民になってしまうのがオチ。

ただ、一見いいことが書いてあるので、ある程度の状況が許されるなら、そう感じる時もあるだろう。心がけとして。
もともとポジティブな状態でワクワクしやすい望みなら、手に入ったように感じると思う。
常に思考は後付けだから、そういうことにしてしまう。

私が一時的に引き寄せを実践してた時はめちゃくちゃネガティブ思考の時期だった。

「波動あげなくちゃ」「今のネガティブな思考を取り消さなくちゃ」
「あの人のこと悪く思っちゃダメ、きっと本当はいい人」とか言って
無理やり口角をあげて、笑顔でいようと試みたが、かなり不細工にひきつっていたと思う。

自分の感情を抑えて、無理やり書き換えようとしたがために、
もっと自分を責めることになって、結果死にたくなった経験がある。

ネガティブすぎる時期にはやらない方がいい。

ちなみに、その後
「ああー!もうええわ!波動どうでもいいし、ネガティブ思考万歳だし、あいつのこともやっぱり大っ嫌いだわ!そうです、わたしゃ意地悪い人でござんす、もうそれで結構!」と
開き直って自分を許してあげたら、そっちの方が断然軽くなりました。

でも、本気で望むと手に入るの方則はあると思っている。

それはそう感じるだけで、ある意味では
ちゃんとそう感じることができる方向に気持ちが向いたということじゃないかなと思うのだ。



引き寄せるじゃなくて「引き寄せられてる」の方則


思考でものは引き寄せられないし、そもそも思考そのものをコントロールはできない。

勝手にネガティブ思考は湧いてくるし、それに対していちいち「今のは嘘嘘」とか自分にダメ出しを繰り返すと、そのうち鬱になるからやめた方がいい。

思いこもうとしてもダメ。自分を何かの概念で洗脳することになるから。

でも波動の方はあると思う。コントロールできないけど。

基本的に現象として現れているものは全て波動でできている。
それは人間とて同じこと。

自然界の一部で摂理に従って動いているだけ。
それぞれに固有波振動数ってのがあって常に勝手に波動がでている。

自然界の方則であれば、湧いてでた波動に何ものかが共振することはある。

いい気分でいれば、その波動の何か。
よくない気分でいれば、その波動の何かが共振して引き寄せあう。

大きい波動の方に寄せられるから、
引き寄せたというより引き寄せらてるんじゃないかな、実際。

ただし、波動に良いも悪いもない。

あとは自分の解釈次第。

実際、昔は私はいわゆる「雨女」で、旅行を企画すればだいたい雨。

そのころは職場が合わなすぎて、陰鬱な気分から逃れたくて、
毎日のように酒を浴びるように飲んでは愚痴まくる日々。

波動の状態なんて気にしたこともなかったけど
今思い出しても、高いとはいえない。低い、というか重たい。

自他ともに認める雨女で、どなたもこなたも
私とお出かけの際は傘のご持参必須でした。

しかし、当の本人(私)は、別に雨嫌いじゃなかったので
(まあ、休みのたびによく降るなあ)程度の関心。

台風の日の伊豆旅行の時など、私ひとりキャッキャしてました。
周りの人は「ついてねえ、こいつを誘ったのが悪かったのか」
などと言ってましたが。

「こんな台風の日に旅行なんて、なかなかできないよね♪むふー」

無駄に興奮気味。周りの人うんざり。

でもね、運転する人は危険だったけど
フロントガラスに正面から向かってくる雨や、大時化の海なんて
一生のうちでそうそう見られるものじゃないもの。

薄いグレーの空と真っ白な波と、世界は淡いモノトーンに見えて
それはそれで綺麗だな、と思ってました。スリリングすぎたけど。

こんなもんで、低い波動で何か引き寄せられた感じがしても
どう解釈するかです。

私には台風を引き寄せる力などありませんから、
たまたま自分の波動の重い時期に、波動だか気圧だかの低い天候の時に予定が入るような
設定だったのでしょう。

逆に他の人たちは悪天候に引きづられて
めちゃ波動の重い気持ちになってました。

波動の調整も自力でなんとかできるとは限りません。
もちろん、私のせいでもございません。


決まった方向に進んでいるだけの方則


以前にも書いたけど、宇宙ができた時に全てが同時にできているので
過去も未来も現在も同じ瞬間にあるわけです。

というか時間の概念は人間の作った言葉なだけで、
実際には時間は存在しないわけです。

もう全てが完成された状態で、
その完成に向かって自動的にこなしているだけ。

たまにこんなことが起こる人がいます。

デジャブを経験したり
過去生を覚えていたり
完成された閃きが降りてきたり
知らないはずのことを知っていたり
教えられたわけでもないのになぜか出来たり

全部同時にすでに起きてるわけだから、たまたまそのポイントに
アクセスしてしまったか何かなんでしょうね。

アクセスしたというより、
思考の隙間から情報が入ってきた感じじゃないかな。
それも勝手に入ってくる。

もともと完成されている状態に向かって、それをこなしているのだとすれば、
ただ物理法則に従って波動共振しているだけ、ということになる。

引き寄せの方則とかで願望が叶ったように感じるのは
むしろ
あるべき状態に思考の方向がマッチした」だけなんじゃないかと思う。

もともと、そうなるべきなのに思考が「自分でなんとかしようと画策した」から
ではないでしょうかね。うまくいってない感じは。葛藤の元になるやつ。

思考には何にもできないのに、別の方向向いていて、違うものを欲しがったり
打算的に考えたりして、
本来の完成された状態、あるべき状態の方向に焦点があっていなかったからじゃないでしょうか。

自分で「欲しがった」わけではなくて、あるべき状態のものを「ちゃんと欲しい」と感じただけ。

道筋があっているから、そりゃ自然とワクワクもするし、なぜか根拠のない安心感があるのだと思います。

だから引き寄せの方則も、捉え方を変えれば確かに正しい。

でも、宇宙のひとつの現象であるところの人間が、
個人単位で何かをどうこう出来るとはちょっと思えない。

逆にその人本来の「あるべき完成された方向」に焦点があっている時
まるで引き寄せが起きたように、ものごとがスイスイとうまく行くようになり
そう感じるのだと思う。

そうなると「ありのまま」「あるべき姿」「そのままの自分」という禅や非二元やお釈迦さまのいうことにも繋がっていきます。

苦悩は全て思考の中。

何かをできる自己はなく、ただそのままの自分があるだけでいい。
ことは全てあるべきままに、うまく行く。


え、でもそれじゃあ
望まない状態だってあるのに、それもうまく行ったことになるのか?

それについても考えてみました。
そしてまた「はっ!」としたというか「あれ?」と気づいたというか。
それが「何とかなる」の方則。



「何とかなる」の方則


これに気づいたのは、やはり結構まえに尊敬する先輩に近況を話していた時のこと。

会わない間の数年の紆余曲折のダイジェストを、息もつかずに一気に喋りまくるのを
面白そうに聞いてくれた彼女はこう言った。

「まあ、人間万事塞翁が馬とかいうもんねえ。あんた、いつもちゃんと人生の辻褄あわせるね。笑」

辻褄があう…。」

あ!なるほど!と思いました。
なんか知らんけど、何とかなるのかもしれない、と。

この「辻褄があう」という言葉はずっと心に残っていて、
「帳尻があう」というか「まあ、大丈夫か」というか、そんなニュアンスで受け取ってました。

それからしばらくして、不意に思ったことがあります。

第二次世界大戦の時、日本に原爆が落とされて、消失した都市の悲惨な光景をテレビでみていてその後50年は草木も生えないと言われていた。
でも、けっこう早く草木も生えて都市も復興している。
何とかなっている。

終戦後、日本中何もなくて、未来も見えなくて、国をあげて絶望の時期だった。
日本はもうダメだと言われた。
でも今は何とかなっている。

東日本大震災の後も、同じように都市が流され多くの方が亡くなって絶望した。
それでも少しずつ復興して、何とかなっている。

私の子ども時代、家は貧乏だった。
小さな家で、決して裕福ではなかった。

父親はサラリーマンじゃなくて、自営業で看板やデザインの仕事をしながら、
あとは好きな絵を描いて暮らしていた。
あの頃珍しいフリーランス。

母は専業主婦で「うちは貧乏なのよ!」と言いながらも子ども3人を育てた。

だけど、一通りの家具もあったし、習い事もさせてくれたし
食事もきちんと食べていたし、時々ドライブにも連れて行ってもらった。
家族ひとりひとりの誕生会やクリスマス会もしてくれた。

今考えると、そんなに稼ぎがいいとは言えない貧乏な我が家だったけど
借金もなく、ギリギリだったとはいえ、
あの状況でどうやって三人も育てたんだろう、と今も不思議に思う。

でも何とかなっている。
その都度、何とかなってしまったのだと思う。

こんな絶体絶命から「何とかなった」話っていっぱいある。
枚挙にいとまがない。

ということは。

決まった方向というのはおそらく「何とかなる(うまく行く)」ことになっているのじゃないだろうか。

思考でストーリーを組み立てて、ネガティブなエビソードを切り抜いて考えると、
幸だの不幸だのが出来てしまう。

もしも、ありのまま、あるべき状態であるなら結果として、必ず何とかなるようになっている。

問題はどの方向に焦点を合わせるかじゃないだろうか、と思う。

そうは言っても、苦しいと感じる時期はある。人間だもの。

波動を上げるとか、ご機嫌でいるとか、自力でできるかはわからないけど
「何とかなるんじゃね」と苦笑しつつも委ねて自分ごと預けてみればいいんじゃないかな。

自分の気持ちが「こっちがラク」ってなる方向へ。

だってみんな、何とかなっているんだもん不思議と。

大丈夫。死ぬまでは生きられるから。

それまでは「何とかなるの方則」が初めから設定されていると思う。

だから今日も生きている。















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