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死は存在しないらしい


死は存在しない。らしい。

お釈迦さまも非二元スピーカーも斎藤一人さんも言っているw。
それどころか、最近では著名な科学者までも言っている。

「そもそも、生まれてないから死なない」と。

この頃、自分も含め死生観が変わってきたように感じる。
いつものように右上からのメッセージも「死」についてだった。

なので、ちょっと「死」について書いてみたくなった。



死の恐怖と死にたい気持ち


人間に限らず、どんな生き物も肉体の死を本能的に避ける。
肉体の死を避けるために、身体中を守る防衛システムとして
あらゆるアラートが仕掛けられている。

体の防衛は、暑さ寒さ、痛さ痒さ、空腹感、疲労感など
わかりやすい感覚として現れる。

メンタル面では自己防衛システムとして、肥大化したエゴがある。

エゴは常に欠乏症で、欲望を餌とする大飯食らいな性質がある。
満腹になると静かになるけど、すぐにまた腹が減るらしい。

腹減った、腹減った、足りねえ、足りねえと。
ああ、うるせえ。

この欠乏感の脅しに乗って、せっせと餌を与え続けてしまうと
大人になる頃は肥大化したエゴに潰されてしまう。

人間は肉体の維持に不安があると、死の恐怖を呼び覚ます。

寒い時、血が出て痛い時、病気の時、休まらない時、空腹な時。
そして、
メンタルの方では体を危険から守るために思考を使い
なるべく快適な衣食住と睡眠を確保し、維持しようとする。

快適な場所、コンフォートゾーンを維持し、
欠乏感を埋める動きの原動力(希望)があると
エゴは結構頑張ってくれるし、強い味方にもなる。
逆に
とても打算的で、魂の声を無視し続けることもする。

私はたぶん、長い間、こいつに餌をやりすぎて
超デブにしてしまい自重に押し潰されてかけていた。

それでも微かに響いた魂の声に従って
エゴとの大喧嘩の末、コンフォートゾーンを無理やり出てしまった。

無理な変化は、エゴの防衛システムの警戒度が高まるらしく
最大級のアラートを発令し、ものすごいエネルギーで反撃死てきた。

「このままではダメだ、このままではダメだ、このままではダメだ」
「死んでしまう、死んでしまう、死んでしまう」
「何とかしろ、何とかしろ、何とかしろ」

「もっともっともっともっと何かすべき・・・」

この声に取り込まれてしまうと(エゴと同一化すると)だんだん鬱になる。

「もっともっともっともっと・・・」

こいつのおねだりにのらずに
なんの希望も餌を与えないでいると枯渇したエゴは恐怖を感じて別の言葉を囁いてくる。

「お前なんかもうだめだ、もう死んでしまえ、死ぬしかない」

この声に取り込まれるものか、と抗いながらも
あまりに強い囁きに時々、同一化してしまう。

エゴは死の恐怖から逃げたいために、
別の恐怖に乗っ取られて思考に取り憑く。

「もう、無理だ、もう死にたい」


内面のブラックホール


ブラックホールとは、あまりに強い重力に自ら飲みこまれてしまった天体だという。
あの頃の私は、まさに胸の辺りのブラックホールに飲みこまれていくようだった。

アイデンティティを失ったエゴによる作用なのかよくわからないけど
胸の辺りにぽっかりとした穴が空いて、しばらく空虚感があった。

自分でも気づいていたけどそれはそれで、
きっと慣れてくるか、あるいはそのうち勝手に埋まるだろうと思っていた。

でも、ある時。

電車に乗っている時に、急に胸に空いた穴が自分ごと飲みこんでいくような、
ぎゅーっと締めつけられ、圧迫されながら引っ張られるような感じになった。

自分がすごい勢いで凝縮して、ものすごい質量の硬い金属なようなものになっていくような
自分がどんどん小さな硬い粒になっていくような、すごい苦しさが襲ってきた。

よく、一瞥体験をした人が「自分が広がっていくような感覚」と表現しているが、
私はその全く逆の体験をしてしまった。

全てから遮断され、完全な孤独と虚無感。
背筋に寒気が走り、足元から冷たくなっていくような感じ。
一気に凝縮して、明らかに無理のある小ささになっていくような感覚。

死の恐怖を超えて、むしろこれでも生きているのかということに恐怖した。
この苦しみから逃れられるなら死にたい!

神様、お願い、寒い、助けて

心の中で必死に祈った。涙も出なかった。
神の手が抱きしめてくれるようなイメージをしてやっと解放された。
普段、神さまなんて信じてないのに、こういう時って神さまにすがるのね。

でも、
その後もしばらくの間、その虚無と恐怖は続いていて、時々死にたくなる。
この世界で、何もできない無力な小さな粒になってしまったような感じ。
誰にも気づかれず、誰にも声が届かない、存在のなさへの恐怖。

無気力。無価値感。無意味感。虚無感。

もう生きている意味がわからなかった。
自分の重力に飲みこまれてしまった天体、光をも飲みこんでしまう天体。
あの時は、自分がブラックホールになってしまったような気がした。

そこから探求が始まった。


人は死なない

心理学、哲学に始まり、そこからは導かれるようにスピリチュアル、
仏教哲学、量子力学、悟り、非二元(ノンデュアリティ)と心のことと意識のこと
を貪るように探求した。

不思議なもので、こういう時って硬くなった心と頭に、ちゃんと理解しやすいように
必要な知識が現れてくる。

何の予備知識もなくても、必要なところに導かれるんだなと途中から気づいていた。
本当に不思議なくらい、必要な人、必要な情報、必要なこと、必要な知識が、私の理解度に合わせるように次々と現れてくる。

一見、別もののように見えても、最終的に同じことを指し示す。

少しずつ心の仕組みとこの世の仕組みが理解できるようになってきて、
初めは何言ってるかさっぱりわからなかったのに、だんだんと理解できるようになっていった。

それでも二ヶ月に一度、死にたい衝動に襲われた。
鏡に向かって、鬼に取り憑かれたような形相で「お前なんか死ね!」と叫んでいた。
今思うと、そんな鬼のツラの醜い自分を冷静にみている何かもいた。

少し冷静になると、また阿頼耶識や般若心経や国内外の非二元スピーカーの話や本を貪っていた。
それでも胸にはぎゅーっと締めつけられるような感覚と、虚無感はあった。

そのうち「死にたい」という衝動の強さも弱まってきた。
弱まってきたというのは、「死にたい」という思考に一緒にべったり張りついていた想念のようなものが薄くなった感じ。

「死にたい」思考は相変わらず定期的にやってくるけど、
弱いというか言葉だけが浮ついて、意味がないというか。

ただ、それでも生きることに限界を感じていたし、生きる意味もわからなかった。
もし、輪廻転生があるのなら、もう人間はいいや、めんどくさい。
死んで全て終わりにできるならそれはそれでいい、と思っていた。

もはや、この世界からの解脱に憧れを抱いていた。

そんな時、以前とある非二元スピーカーさんが言っていた言葉を急に思い出した。
「人は死なないよ。だってそもそも生まれてないのに死ねるわけないじゃん」

え。死なねえのかよ、死ぬこともできないのかよ。

ということは?
そう。なすすべなし。

結構ショックだった。

その後の私の探究カテゴリに「死後の世界」が加わった。
なるほど、意識はそのまま残るのか。

しかも、この世が幻想であの世が本ステージらしい。

だんだんと、パズルのピースが集まってきた。

子供の頃から生きづらさに感じていた違和感の謎も、この世の謎も
解けた部分と思い出した部分とがあり、理解度が深まっていった。
ここが現象世界であるなら、色々と辻褄が合ってしまうのだ。

生きることへの諦めはまだわかるけど、死ねないことへの諦めを
生きてるうちに経験するとは思わなかった。

じゃあ生きるしかないの?生まれてもないのに?何だそりゃ。
もう、お手上ですわ。

リアルな夢をみているようなもの。
やっぱり幻想なのか。

死にたくなるほど苦しむのも、実はさほど意味がないことがわかった。
同時に
生きることにもさほど、意味がないことも。

人生に失敗も成功も関係ないし、
幸せも不幸も概念だったということに気づいた。



右上からのメッセージと死に際の夢

そうこうしてると、きましたね、短いセンテンスの右上からのメッセージ。

たしか「死はカジュアル」だったかな、そんなようなまさかの不謹慎言葉。

「死はカジュアル」と言いましても、やっぱりちょっと受け入れ難い。

ただ、ニュアンスとしては
それこそ自重で自分に飲み込まれるような、ブラックホールに引きずりこまれるような
暗黒の闇ではないし、そこまでの恐怖に値するものではない、ということらしい。

エゴは死の恐怖から、思考と感情に恐怖アラートを最大級に発動するから
死はとてつもなく恐ろしいものだと思いこんできた。

そういえば数ヶ月前に不思議な夢をみた。

私が誰かを看取るシーン。
その女性は見知らぬ人だったけど、親類縁者のようだった。
着物をきた品の良い年配の女性。

女性は死の淵で、枕元に財布だのバスの定期券だの診察券だの並べて
「よし忘れ物はない」と言った。

私はその女性に「診察券?あの世に病院なんてあるの」と聞くと
「あるわよ、普通よ。ここと全然変わらないわよ」と言った。

そして
「今日の夜、18時ごろに迎えがくるから、その時逝くつもり」と気軽に言った。
あまりに気軽な感じで言うので、神妙にするべきか愛想笑いで返すべきか態度に悩んだ。

18時になると、その女性からそのまんま姿が抜けて「じゃあまたね、身内はここから行くのよ」と言って押し入れの襖を開けた。

そんなところがあの世との連絡口だったのか!

そのあとはどうなるの、と聞くと「あとは普通よ」みたいなことを言っていた。
すると、反対側の襖が開いて、亡くなった父と叔父2人の三人組が、お酒でも飲んでたのか
陽気に現れて、女性に「ああ、どうも」などど軽く挨拶しつつ、また楽しそうに話しながら通り過ぎていった。

「あれ、お父さん、身内の入り口はこっちらしいよ。なんでそんなとこから出てきたの」
声をかけたけど、三人は全く意に介さず陽気に雑談しながら部屋を横切っていった。

私はさっきの女性が気になって、外に出てみた。
女性は日傘をさして、昔近所に住んでいたおばさんたちと楽しそうに雑談していた。
話の内容はよくわからなかったけど、本当に普通のよくあるおばさま会談。
「あら、おでかけ?どちらへ?」「〇〇に行くのよ、何時のバスで」「あらそう」
なんて事のない普通の会話。

そばに行って一緒に会話に混ぜてもらったけど、ふと
(他の人にはおばさんたち見えないから、きっと私が1人で喋ってるみたいに見えちゃってるかも)と急に恥ずかしくなって、家に戻った。
女性とおばさんたちは、そんなこと全く意に介さず楽しそうにぺちゃくちゃお喋りしていた。

覚えているのはここまで。

今思うと、着物の女性は私が生まれるよりずいぶん前に亡くなった祖母なんじゃないかな、と思った。

見たことはないけど、何となく母に面影が似ていたし。

夢の中では明るい感じで、サバサバと逝ってしまったけど
本当に意外とこんな感じなのかも知れない。

ちなみに話が戻るが
自分がブラックホールに入ってしまったかのような、ぎゅーっとした締め付けは今はない。
比較的、心は凪の状態。

ブラックホールといえば、この頃また導かれるようにホーキング博士の本を読むことになったり、映画をみる機会があったりした。

ブラックホールという穴があるからには、出口があってそれをホワイトホールというのだそうだ。
そして、そこに向かう通路をワームホールというらしい。

私はあのとき内面のブラックホールに自分ごと飲みこまれちゃったんじゃないかと思う。
そしてワームホールの中にいる。
それでも、まあ普通だし、生きてるけど(いや生きてるわけでもないけど・ややこしいな!)

もし、ホーキング博士のいうブラックホール理論が正しいなら
フラクタルな宇宙構造と同じく、私もいずれホワイトホールから飛び出すのだろうか。
予想だと多分、反転した同じ宇宙って気がしてならないのだ。

現象世界は何も、物理次元だけではなくて、ストーリーは結構長く続くのだと思う。


















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