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思想と信念と宗教と #04 宗教と信仰


正直に言えば、私は無神論者です。
でも、宗教や創生神話は大好きです。


スピリチュアル的な話も大好きです。
でもたぶん、別に全部は信じてません。 

脳科学や量子力学の話しも大好きです。
かと言って科学信奉者でもありません。


メディアも別に信じてません。

じゃあ何を信じてるの。

何も信じられるものがない、ということは信じてます。

これは#01に遡るけど、そもそも「信じる」という言葉を使う以上、
その背景に「疑う」がもれなくセットでついてきます。

でないと「信じる」という言葉は発生しません。
いつもセット。ニコイチ。

疑いがなければ、その事柄事象について1ミリも問題になりません。

本人にとっての「当たり前」であれば、疑うことなどあり得ないわけですから。

だから概念的にも「信仰」とか「信じる」みたな言葉はちょっと矛盾を感じます。

何の不思議もないわけだから普通に語ります。

では、それは何らかの布教活動にあたるのでしょうか。

逆説ですが「疑う」気持ちを持ってないと「信仰」の布教活動はできないと思います。

当たり前のことをなんでわざわざ、言いふらしに行かなきゃならないのか。

そしてこれも#01で言及しましたが、
全員もれなく、なんらかの洗脳にかかってます。

そして、わざわざ無神論者で、無信仰です、と明言している私は、
無神論信仰と無信仰信仰を実践しているわけです。




宗教の自由


ほとんどの国には、神的な思想・概念があるそうです。

伝承のしかたはそれぞれに違えど、
何か人智をこえた大きなチカラが、この世界を作っているという認識。

そしてそのチカラは目には見えない。大きなエネルギー、というこのあたりまではどこでも同じですね。

あとは擬人化してるかしてないか。

アニミズム的な自然崇拝や多神教もあるようですが、言語体系がしっかりしている国であるほど、擬人化が多いように思います。

きっと昔、伝導するにあたって擬人化しといたほうが伝わりやすかったからだと思います。

それが絵画として伝えられるうちにイメージが定着して「白いヒゲのおじいさん」になって行ったのでしょう。

宗教分布


世界の宗教分布でいうと、キリスト教・イスラム教・ヒンズー教だけで世界人口の3分の2を占めるようです。

世界のだいたいの人が、なんらかの信仰を持った家庭で育っているということでしょうね。

ちなみに、宗教とはで検索するとこんなんでます。


宗教(しゅうきょう)

一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。

なお広辞苑では、「神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事」、としている。
(Wikipediaより)


もともとは絶対的なエネルギーを大いなるものと畏れ崇めたことから、
神的概念が生まれ、その法則に沿うこと、それが
暮らしや生活の行動指針になっていたのだと思います。

たぶんね。
元はこのくらいシンプルなものだったと思います。

なんでもそうですが、生まれた時(発生)はシンプルなのに、
だんだんと体系化され、組織化され、ルール化されると細かい決まりや設定ができてきて複雑化する。

細かくなればなるほど、複雑になり、
最終的には誰も管理できないカオスへと突入します。

もともとは、大いなる何かエネルギーの元に動かされている人類たちは
その「何か」に基づいた行動指針のための暮らしの「ルール」が必要だったのではないかと思います。

まあ、簡単に言えば大いなるなんらかの存在を元に、ルールありきで組織化されたものが宗教と呼ばれているのであって、本来の教義はまた別枠で考えてもいいと思います。

宗教そのものは暮らしの知恵であって、教義・信仰は行動指針の拠りどころ

いま、日本では宗教2世が問題視されているようです。

日本のように、はっきりとした宗教体系を持たない国では
ガッツリなんらかの教義を信仰しているのを見ると違和感を感じやすいんでしょうね。

ましてや、日本では
過去にかなり大きなカルト教団の事件がありましたから、より警戒心があるようです。

宗教だけではなく、主義、思想、なんらかのイデオロギーを掲げる団体への所属を警戒します。

それが宗教に限らず政党であっても
民間のスピリチュアル組織であっても
何かしらの共同組合のようなものであっても、その所属を避けたくなる傾向があります。

ひとつは、ルールを押しつけられることと、
もうひとつは、価値観を洗脳されることに抵抗があるからです。

宗教2世の方は、それらが生まれたときから自然と身についていて、
思考も体も自然にその信仰に則って行動できるのに、
社会に出たときに誰かに指摘されて、
自分は人とは違うんだということで、それまでなかった信仰への「疑い」がブレーキをかけてしまうので、心に葛藤が生まれると思います。

生きづらいですよね。
でも、世界人口の3分の2はなんらかの信仰の伝導に則って自然に生活しています。
世界レベルで見れば、わりと普通なので、気にしなくてよさそうですよ。

宗教には、その教義によっての儀式や作法やしきたりやタブーがあるので
それらが、無宗教の多いこの日本では違和感に感じるのでしょうね。

でも、しきたりやタブーは宗教でなくてもたくさんあります。

手づかみで食事する国ではお箸は使いませんし、
お箸やフォークを使う国では手づかみで食事はしません。

信仰や思想でベジタリアンの人もいれば、
ダイエットのためにベジタリアンの人もいます。

どちらも同じベジタリアンだというのに。

たしかに、新興宗教やカルト的宗教では
違法とよべるような信者獲得やお布施の集金があるかもしれません。

違法なのはそのやり方(社会的なルール違反)のほうで、教義や信仰対象ではない。
教義そのものに納得がいくならその信仰を支持するのは個人の自由だと思います。
(強制的な洗脳は別問題ですが)

LGBTが認知されている今、いまさらながら、信仰の自由も個人の勝手と周知されてもよさそうなものです。
強要さえしなければ。

もし、布教されても信じないならそれでいいわけですし。
洗脳されそうだと感じたなら、もともと持っていた信仰に疑いがあったということです。

あくまでも、その対象ではなく自分側の解決でいいのでは?と思います。
(あくまで私個人の意見ですが)


神さまってなによ


そもそも、神と崇められる「何か」とはなんだったんでしょう。

これは私の個人的な考えですが
やはりこれも「概念を含む概念以外のすべて」だと思います。

つまり「当たり前すぎて言語化されていないもの」万物の創造主。

仏教用語でいうなら
色即是空空即是色そのもの、そして森羅万象。

そこには自分も含まれます。自分も含まれちゃってるから
たしかに自分も神といえば神です。

フツーすぎて概念化もされやしない。
だから認識すらできない。そのくらい当たり前のこの感じが
「神」の正体ではないでしょうか(概念だけど)

非二元のメッセージを聞いたとき
「あーなるほど」と思ったのは
もともとにこの宇宙を作った「誰か」がいるとは思えていなかったから。

神さまが人間を作ったなら、
神さまを作った神さまが必要になり、その神さまを作った神さまが必要になりと、どんどん永久退行してしまう。

それなら「いない」と仮定したほうがむしろしっくり来たからです。

非二元スピーカーのいう「それ」とか「これ」が
私の言う「これ」かどうかはわかりません。

でも、擬人化も偶像も本当の神さまとは、やっぱり私には思えない。

それらはアイドルと同じ。信仰対象は対象であって、信仰そのものではないですよね。

普通に感じる大好きな「誰か」って感じでいいと思います。

その大好きな「誰か」までも創造したベースそのものが、いわゆる神さま的な概念だと思ってます。
(あくまで私個人はです)

だから、何がその人の「神」になるかはわかりません。
親かもしれないし、会社かもしれないし、お金かも知れないし、自分自身かも知れません。

変に定義づけてしまうから、また正しさ争いで問題が発生するのだと思います。

どっちの神が強いだの正しいだのと。
どんな神さまがいてもいいけど、それらが存在するのはどこ?ってことです。

ここですよね。

神さまがどこかにいるんじゃなくて、私たちは初めから神さまの中にいるってことです。


ちょっとズレてる私たち


キリスト教の原罪とは、ギリシャ語でハルマティア、その語源は「的外れ」だそうです。

聖書の言う「的」とは、宇宙を創り、地球を創り、そして私たち人間を創った創造主である神を指すそうです。そして「外れ」とは背いている状態のこと。

つまり「的外れ」とは、「神の方向を向かずに神から離れている」という意味で、これが原罪の本来の意味だそうです。

もともと人類は、エデンの園で分離などなく全てと調和して暮らしていました。
地上のあらゆる動物たちと同様に。

聖書だと、アダムとイブが善悪の智恵の実を食べたことから、自我を持ち
そこから分離感(苦しみ)が始まったと言われています。

これに似ているのが仏教の「諸法無我」

諸法無我とは、「すべての物事は因縁によって変化するものなので、固定した実体はない。」つまり、全てにおいて絶対的な正解はなく、確固たる「自分」も存在しないと言うこと。

もともと、自分などはなくて、他の全てと調和していたということで、「自我は勘違い」だったと言うことです。
はじめはエデンの園のような分離のない状態(ワンネス)の中にいたということです。

全てひとつのエネルギーであって分離した「私」というのは勘違いで、もともとなかったということですね。

現代の感覚でいうのなら知恵の実を食べる前がエデンで、右脳側。
智恵の実を食べた後が、神に背いてエデンを追放された思考優位の左脳側。

昔の人たちは、人類がズレ始めていることを知っていたのでしょうね。

それを覚えていた人たちが神話という形で残し、各国で伝承されているかなと思います。
現代は、覚えていた人がほぼなくて、時々、気づく覚者が現れる程度。

現在のカオスは、分離が進んだ状態です。
左脳優位になってしまった人類の脳。

本当はひとつなんですよね、実感としてそうは思えなくても、そう考えた方が
やっぱりしっくり来るんです。

人類はこれ以上、脳みその言語野を活性させて分離意識を進行させてしまう前に、
そろそろ
エデン側の脳みそを起こす時期に来たのかも知れません。

もうそろそろエデンに帰ろうよ〜、みんな。


もう一回くらい、続きがあるかも。
ピダハン族のことも描きたいし。




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