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過ぎてみなけりゃ解らないー介護うつ

 1993年の暮れ頃だったと思う。母方の祖父が亡くなった。大阪で知らせを受けた時は過労死一歩手前で働いていた小生は「爺さん助けてくれたな」と思って休暇を取る事が出来た。助けてくれたなとは思ったものの、それが地獄の始まりだった。

 1994年、仕事で体調を崩して実家療養という事になったのだけれど、今度は実家の祖父がどんどん悪くなっていった。老衰(確か診断は心不全
)だけど。程なく亡くなった。
 1995年大阪へ復職し、再度体調を崩した。これは今でもちょっと言いたい事があるのだけど譬えて言うならば精神科医に「お前医者だろ?医者なんだから明日から最新機器の揃った総合病院のICUで仕事してくれ」というような人事を喰らった。
 この時が以下。

 再度実家での療養に入った。すると今度はきょうだいが結婚して家を出て、実家の祖母の具合が悪くなって行った。

 並行して一人で暮らしていた母方の祖母の認知症が進行して行った。

 実家の祖母も送った。そして再度の復職をしたものの、浦島太郎状態で社内ニートになってしまったような感じがしたので、会社を退職した。

 で、以降母方の祖母を老健→グループホーム→特養へと送った。長女である母を面会の為に週一で送迎を繰り返し(片道35キロ程度の距離)、千回以上施設へ通ったと思う。その間働けそうなら働いたり無理なら無職でぶらぶらしてみたりしていた。株は毎日見ていたけど。

 やがて親父が急逝した。
 その後、しばらくあったけど数年前に母方の祖母も見送った。
 三回忌の後に母方の墓じまいもした。

 ざっとこんな人生を送ったのだけれど、母方の祖母を見送った後で心身の調子ががくんと悪くなった。バイクに乗って転んで生涯初の骨折もした。

 そして今、最後に残った家族ー母を施設へ入れた状態なんだけど、気持ちがずっと軽くなった。長い事、介護うつだったのだ。元々病んでいる上に以上述べたような事ばかりやっていて気が付かなかった。という意味では母の介護・見守りは最大の脅威だったんだと今思う。

 現在は「普通に病んだ状態」に戻りつつある、と思う。

 介護うつは病気のように段々進行して行く。本人も気が付かない。現在施設に入っている母はそういう意味では小生に迷惑をかけてはならないと気丈だったので、同居しているだけでこちらの鬱も進行して行ったんだと思う。

 過ぎてみなければ 終わってみなければ解らない事のなんと多い事か。

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