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The edge of お江戸-12

「あっぶ!・・ねぇだろ!このトンチキッ!」
「っとすまねぇ!」

家を走り出た所でぶつかりそうになった吉次郎きちじろう

行き違った所から慌てて引き返すと、取っ手を持ってる反対の右手で
底を抑え、腰をかがめているお紗代さよおけから、
たった今、み上げたばかりの水が半分ほどこぼれた後だった。

斜め下からものすごい視線が突き刺さってくる。

「彫り屋から鉄砲玉にでもくら替えか?それともあンた!
うま年生まれかぃ?馬ッコロだって家おん出る時ゃ走り出しゃ!・・・」

ふとお紗代は黙ると、穴をあけるような視線を吉次郎の顔にすえた。
それに気づかず、引き返す時、ふところからヒモで十字にくくった
ト書きのたばがぽとり落ちた事にも気づいていない吉次郎は、
頭を下げながら右手を差し出した。

「すまねぇ、でぇ・・丈夫かい?桶、貸してくれ、俺が持たぁ」

といった言葉など聞こえていないかのように、真っすぐ立ち直した
お紗代は桶を後ろに隠すみたいに自分の脇へと引き寄せ、
「いいよ、こんなの・・・」
と、両のまゆを真ん中に寄せて、まじまじと吉次郎の顔を
見つめたままそうつぶやいた。

「すまんかった、つい急いでて・・・」

尋常じんじょうでないほどの一心いっしんさで顔を見つめて
くるお紗代の視線に気づいた吉次郎。

「・・な・・・なんでぇ?」
「ゆんべ吉原よしわらにでも行ったのかぃ?」
「ほあぁ?やぶからぼうに何言い・・んな金あるわけねぇじゃねぇか!」
「だろうね」
「何だってんだぃ、急に?」

という問いかけは耳に入らず、お紗代は吉次郎の背後の地面を
目で指しながら聞いた。

「あれ・・・嘉兵衛かへえさんが書いたやつ?」
「・・いけねぇ!・・・こいつを忘れちゃ何にもならねぇ」

備えに嘉兵衛が同じものを3つばかり書いておいたもののうちの一つを、
振り向きざま慌てて拾いにいく吉次郎の背中を見送りつつ、
お紗代はもう一度井戸へと歩き出した。

「ああ・・俺が汲み直すよ!」
「いいから早く行きな!版元はんもと回るんだろ?」
「いや、その・・・」

版元へ行くわけではない。
行けば、叩き出されるくらいならマシな方で、顔を見た途端、
唾でも吐きかけられかねない。
が、その辺の事情を紗代は知らなかった。

嘘をついているような気まずさと急いでいるせいもあって、
吉次郎は心の中で紗代に手を合わせ、行こうとした。

「すまんかったな、お紗代さん」

すると、紗代が振り向き、言った。

「いい顔してんじゃないか」
「へ?・・・」

吉次郎の足がピタっと止まったのは、言葉の意味が分からな
かったからではなく、言いながら笑う紗代を見たからだった。
少女みたいな顔で。
両頬に浮かんだえくぼを初めて見たような気がする吉次郎にとって、
それはほんの一瞬だった。
気が付くと振り向く前の背中に戻っていた吉次郎の視界の外側から、
紗代のいつもの声が響いた。

「まいんち、そういう顔してな!ほれ!早く行きなって!」

水を汲みながら言う紗代の後ろ姿に、「お・・おぅ」と小さく
返事をすると(何言ってやがんだ?顔に何だと?)と
落ちないまま、右手で自分の顔をつるりと一回撫でまわしてから、
吉次郎は駆けだした。

***

『お宅・・嘉兵衛さんておっしゃいましたかね?・・ト書き出す前に
持ち込みの板ぁ先に出して・・ねぇ?・・なるほど見事な彫りっぷりだ
・・思わずこっちが早く刷りに出したくなるような・・・はぁぁ・・
確かに画はいいよ?・・ところがあンた・・・彫師があの、
うすらトンカチのとんでもねぇ汚れダルマでコンコンチキの
スットコドッコイボケカス野郎のボケナス野郎がおとといきゃがれ
なまくらハゲのどぶ板くらげにダボハゼ野郎めオタンコナスが屁でも
こいてろコンちくしょうが!ひょうろくダマでひょうたん野郎な
ブタのケツにモモのケツめがてめぇの頬っぺた足の裏で張り倒して
やっから、コケでも喰らってとっとと緑のクソでも
してやがれってんだコノこきち山がぁ!・・・ってねぇ?・・・あなた・・
やっこさんの件、ご存知なんじゃ?・・だしょ?知ってんでしょ?

ほいで先に板出して彫師ほりしの名前言っても地本じほんにできるか、
探りを入れてみたてぇところなんじゃありませんか?・・・
違いますかい?・・・おっしゃる通りですねん、てねぇ・・・
勘弁して下さいよ、あぁた、それじゃ新手あらての嫌がらせだよ、
まったく・・いやね、嫌いじゃねぇんですよ、この画自体はね・・
いい画だ・・でもねぇ嘉兵衛さん、こちとら腹膨らませた母あ一人
抱えてんだ・・わざわざてめぇからこの界隈で村八分んされるような
酔狂すいきょうはできませんや』

28枚の板を重ねて包んだ風呂敷片手に、そう言って断られた2軒目を
辞してきた嘉兵衛、江戸の街中をあてもなく、頼りない足取りで
彷徨さまよい歩いていた。

今の2軒目の番頭さんは、途中興奮していて何を言っているのか
わからず、心の中で“寿限無じゅげむ、寿限無”と唱えてやり過ごした
が、まだちゃんとことわりを口に出して言われただけ良かった。

1軒目などは、吉次郎の名前を出したとたん、物も言わなくなり、
しまいには片手で“シッシッ”と犬を追い払うような仕草で追い出された。

ト書きを読んでもらう事もなく2軒回っただけで、まだお昼には
早い刻限だが、嘉兵衛はもう3軒目を回る気力が失せていた。

(全部って事あらへんやろ思てたが、こらアカンゎ。
ほとんど全ての版元に知れ渡っとるようやな・・・)

そう思いながら、懐から1枚の紙片を取り出す。

(できれば、ここへは行きたない思てたけど・・・)

と気が進まない。

一方で“ここしかあるまい”という気はしていた。
“いざとなったら、ここへ”と思っていたつもりだが、実は最初から
ここにしか行くつもりがなかったんじゃなかろうか、とさえ
思えてきた嘉兵衛だった。

大坂にもそういった類の売り屋はある。
紹介された時、どんな所か、の察しはつけていた。

路地裏の汚い掘っ立て小屋みたいな所に、表紙を隠した束が
いくつかある。束の中の質の悪い紙は、しみやらなんやらで汚れ、
とこどころが破れている。

そんなのが、さっきの2軒目の番頭さんじゃないが、どぶ板1枚の
上に10から20冊ほど雑然と散らしてある。
並べてもいない。

(地本がかわいそうや)と大坂にいる頃、見る度に嘉兵衛は
そう思ってきた。

(そんな所に、わぃの噺と吉やんの画を置けるかぃな)と今、歩き
ながらそう思う嘉兵衛だったが、どこにも出版を請け合ってもらえ
ないとなると背に腹はかえられず、また例によって朝から何も食べ
ていない腹は、それとかえるどころかくっついてしまいそうだった。

(何か腹に入れてからいこうか・・粥飯かゆめしぐらいなら
ぜに足りるんちゃうか?)
と行きたくなさに、腹がへったと先延ばしの言い訳をしつつ、心中、
路地裏の情景と粥飯両方と取っ組み合いながら、紙片に書いてある
簡単な道の図をのろのろと辿たどっていると・・・。

ついてしまった。

しかも路地裏では無い。

一瞬、間違えたか?とも思ったが、紹介されたそこは、ちゃんと
店としての構えをしていた。

やたらと小さく、狭そうな店内は、恐らくほんの2、3間四方ほど
しかないのではあるまいか、という店というよりはハコといった
ていではあるが。

それでもなんと、表通りにあるのだ。
一番端っことはいえ、れっきとした表通り沿いに、しかも見てくれ
からは小奇麗こぎれいな印象をうける。

建付けに使われてる板は、幾月か経っているだろうが、
まっさらの新品に見えた。

想像していたのとは違う光景に、嘉兵衛は面食らっていた。
店先では丁稚でっちが一人、ほうきを手に道を掃いている。

(こんな狭い商い屋に、丁稚さん置いとく余裕なんかあんねやろか?)

と思いながらも、

(ま、丁度えぇわ、この丁稚さんにご主人いてはるか、聞いてみよ)

と足を進めようとすると、気配を感じたのか、その丁稚がふと顔を上げた。嘉兵衛の足が止まった。

(・・・こ・・子供やないかぃ・・・)

たいがいと背が低い嘉兵衛よりもさらに小さい少年とおぼしき者が、
箒で道を掃いていたので丁稚さんと見当をつけたのだが、つと上げた
真っ白な顔は少年どころか、ほんとの子どもにしか見えなかった。

童顔どうがんとか、そういう話とちゃうで、こら・・・)

と老け顔で嘉兵衛は思った。
吉次郎の顔が浮かぶ。

(やかましゎ!おっちゃんちゃう言うとんね!)

“子供”は両眉りょうまゆをひそめ、怪訝けげんそうな表情で嘉兵衛を見ていた。

(ちっさい目ぇやな・・・)と真っ白な顔の上の方に点々が二つ、
口がまた細くて、線が一本、顔の下方に引いてあり、
これまた小さい鼻みたいなものが顔の真ん中にあるように見える。
息苦しそうな素振りが全く無いので、どうやら穴はあいてるらしい。

(出直そかいな?)と思いながらも足がぴくりとも動かないのは、
さっきから奇妙な違和感を感じているからだとわかっていた嘉兵衛、
その違和感の正体に気づいた。

(あの頭巾ずきん・・・と身なりが・・)

“子供”は濃い茶色の頭巾をかぶっていた。
頭の天辺てっぺんが平たい奴だ。
そしてかなり上等そうな生地きじである。
恰好はと言えば、上下薄茶の作務衣さむえ濃紺のうこん
前掛けをしている。
そのどれもが上等そうな生地だった。

子供の恰好としては、かなり奇妙なのである。

(なんかの絵草子に出てきたわらべの姿した妖怪みたいな・・)

と、突然その妖怪が線・・いや口を開いた。

「あなた・・・もしかして、嘉兵衛さん?」

たなに飾ってあった“こけし”がしゃべったかのような驚きに
打たれ、嘉兵衛は風呂敷を落としそうになった。

「そう・・なんでしょ?嘉兵衛さん・・ですね?」

半開きに口を開いている嘉兵衛にかまわず、その目の前で子供は
“はぁ~”とこれ見よがしの溜息ためいきを大きく一つしてから話を続けた。

わけありの地本出したいって人が、真っ昼間に堂々とお目見えとは・・
恐れ入りますわ、全く!」

嫌味いやみを言われている事にも気づかず、嘉兵衛は、

「な・・・なんで?」

とやっとそれだけを口にした。
子供は、箒を片手持ちにしてさっさと背を向け店へと歩き出しながら
言った。

「ゆうべ、八兵衛はちべえさんとこから使いの者が来ましてね。
話はざっとうかがってます」

と紹介者の名前を口にしてから立ち止まり、振り返って言った。

「あんまり人に見られないうちにさっさと入っちゃって下さいよ!
ひまだとは言え、まさか昼日中ひるひなかにお越しとは思ってもいませんでしたよ!」
「え・・えらい、すんまへん、夕方か夜にでも出直してきまひょか?」
「いいですから!早く入って!」

子供にえらい剣幕けんまく指図さしずされながらも、
腹立たしさは一切いてこない。

もはや嘉兵衛は、目の前の子どもが童の姿をした本物の妖怪に思えて、
心は驚きだけで占められていた。

(続く)


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