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「正論」を伝えるときは小包みにつつんで

「正論」は時に刃になる。

先日、数年ぶりに学生時代の友人にあった。それぞれの道で活躍をしているようで刺激を受けた。

会も進むと酒がまわってきたせいか、友人同士が軽い口論を始めた。IT系でバリバリ働く友人とバーのマスターの友人だ。

どうも今の雇われマスターの仕事が居心地が良く満足だと言う友人に対して、IT系でバリバリの友人が不満、心配をしているようだ。

ようは「現状に満足せず、自分でお店を持つなり上を目指せよ」ということだ。正論だ。

バーの友人は「これで幸せなんだから、このままでいいんだ」という。正論だ。

どっちも合ってると思った。人それぞれ向き不向きがあるし、幸せの形も違う。

でも、バーの友人にはどこかで「痛いとこ突かれた」という心理もあるように感じた。僅かな気持ちの揺らぎだ。その友人は元来、頑張るタイプではない。でも、与えられた仕事を黙々とこなすところは昔からあった。

実は、ぼくはこの友人がちゃんと社会でやっているのか心配していたので、バーの仕事を長く続けていることにホッとしていた。

だからIT系の友人には、「そんな責めないでやってくれよ、言いたいことはわかるけど」と思った。少し追い詰めているように感じたからだ。

「正論」は時に人を追い詰める。まるで刃を持って会話しているようだ。

こないだ、テレビで正論ハラスメントと言われるものがあると言っていた。出演者たちは「正論を言うことの何がいけないのか理解できない」という感じだ。

ぼくには半分くらいは理解できた。女性が「痩せたいね~」「でも痩せられないよね~」と話しているところに「カロリー制限して運動すれば痩せるよ、それだけ食べてるってことだよ」と言われてしまったら元も子もない。そんなことはうっすらわかっているのだ。

ぼくは思う。

「正論」を言う時ほど、オブラートに包んで、さらに小包みに入れてリボンを着けるくらいの優しさと思いやりが必要なのでは?と。

少なくともぼくにはそうして欲しい。そうすれば、安定したリラクシング生活が送れる。

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