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酸っぱい葡萄の話のとらえ方に違いがある私と妻

妻と話しているとどういう話の流れからだったか「酸っぱい葡萄」の例えの話をすることになった。「酸っぱい葡萄」の例えとは以下のような話だ。

イソップ物語」にみえる寓話 (ぐうわ) の一。キツネがおいしそうなブドウを見つけるが、高いところにありどうしても届かない。しまいには「あのブドウはきっと酸っぱくてまずいに違いない」と言って去る。

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解釈としては自己の能力の低さを正当化や擁護するために、対象を貶めたり、価値の無いものだと主張する負け惜しみを意味するようになったというのが一般的だ。

この一般的な解釈を自分も採用しているし、そういうことをしてはいけないのだと自戒している。

私とは違った解釈をしている妻

妻はどうやらこのたとえ話を知らなかったようでこの例えを解釈抜きに流れだけ話すと

「誰も傷つけずに自分を納得させるいい方法じゃん」

と言うのであった。
全く思いつかなかった解釈だ。
初めて聞いたたとえ話にこの解釈をするのだからこれが妻の本音と言うか本質的な何かなのだろう。

そうか、人に「あの葡萄は酸っぱいに違いない」と不必要に触れ回らなければある意味で自分を納得させる方法としては結構アリなのかもしれない。

そこに自分の成長があるかどうかや、工夫することの大切さやらは横に置いておいて、そうやって自分を納得させることは確かに大切なのでは。

そこが違うだけ

 私はどちらかと言えばこの例えは「戒め」的な意味合いが強いと捉えてきた。「狐のようであってはならない」「狐と同じじゃだめだ」と言う捉え方だ。でも妻はそうではなく自分を納得させるためのある種の「メンタル的ライフハック」と捉えたようだ。

私と捉え方は違うのだけれども、妻の捉え方にも一理あって、なるほどと思う理由もある。

これは日常の会話の中のほんの一例にすぎず、生きていれば山盛りに同じようなシチュエーションに出会うことがある。

自分と捉え方が違うからと言って自分の方法に合わせさせる必要も、自分が相手に合わせる必要もない。

そこは違うという事だけ分かって必要以上に踏み込まなければ良い話なのだ。

そこが違うだけで別のところで一致していたり、共有できるものがあれがそれでいい。違うところに相手の言い分を認め、なるほどと思うとなお良し。

という事にもっと早いうち、できれば中学生くらいから気づいていればもう少し楽な人生が歩めたのではないかと振り返る。あの彼とも、この彼とも無駄な争いをしなくて済んだのかもしれない。

でもこれは結婚して他人としばらく暮らし始めてようやく分かった事なので、仕方がないのだろうなぁと思う次第。

もしこの文章を読んでなるほどと思って、心のもちかたを変えてみると少し楽になることもあるかもしれません。

若くしてこのことに気づいている人がいたらそれはうらやましいの一言。そのセンスと感覚は大切にしてください。


まとまらない文章にお付き合い感謝申し上げます。

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