思考と行動の配分

 パレートの法則のように、2割の思考が8割の行動を生み出しているのだろうか?それとも、2割の行動が、8割の思考を生み出しているのだろうか?私の場合は、なるべく思考する事は避けたいが、行動量が少ないので、必然的に思考量が多くなる。

 思考と行動の理想的な配分は何なのだろう?思考するよりも、行動している方が成功するのではないかと思えてしまうが、そう話は単純ではない。行動だけならば、機械と変わらない。企業活動のように、上層部(思考)と下層部(行動)に分けるならば、上層部の作成した行動計画に従って、計画を実行する部隊が多い方が、より成果を生み出せるのかもしれない。一人で実行出来る事には限界があるからだ。行動領域を機械化すれば良いと思うが、思考に合わせて、機械を改善し続けるのは金銭的に難しいし、現実的ではない。現実は、機械に合わせて思考を変えて工夫していく事だろう。機械の規模によって、改善する手間が変わるだろうが…。

 社会システムも機械のような物で、一度出来た仕組みを簡単に変えられるものではない。システム開発のように、パッケージ化された仕組みを組み合わせて、全体像を作り上げるように出来れば良いのかもしれないけれど、もっと社会は個別的であり、細かい。パッケージ化出来る程単純ではない。社会システムを単純化すれば良いと思うが、人間が多種多様で、教育を受けた者しかそのシステムを維持できない。社会システムを遵守する能力がない人も居るのも現実である。そういう人は律速因子になっているのかもしれないが、効率を求め過ぎて、人を切り捨てる事は社会倫理に反する。人道的ではない。

 個々の人間が、自立して生活できる力があれば、社会はもっと自由になるのだろう。自立する為には、商品やサービスを提供する力が必要である。商品を開発し、それを販売し、顧客へそれを届け、対価を頂く。製造業の営業活動を個人でできれば、自立出来るだろう。また社会システムの強固さを活用し、サービスを提供する事でその工程に入り込むのも一つの手だ。

 学問とは思考と行動が一体となる知行合一の状態である。学問が出来れば、個人の自由を増大できるだろう。学問は個人的な行為である。個人の自由を確立する為に学問は存在するのだ。勉強ができなければ、集団で行動するしかない。他者の協力が無ければ生きていけないからだ。

 生きているルールが異なる人とは気が合わないのかも知れない。

 生活に必要なものを提供する。

 私は他者にマウントしないが、マウントする人はなぜそうするだろう?私には理解出来ない。またストーキングもした事が無いので、ストーカーの気持ちも全く分からない。なぜ他者が嫌がる事を好んでするのか理解出来ない。他者の拒絶を受容できないのだろうか?というよりもそれを知覚する能力がないのかもしれない。私とは異質な存在である。

 一方的な自己主張で満足できる人はある意味羨ましい。私はインタラクティブの方が楽しい。一人で話していて何が楽しいのか理解出来ない。そういう人も私とは異質な存在である。

 他者を犠牲にしてでも自己の願望を実現したい人もこの世の中にはいる。

 自由連想的で、結論も導けぬまま終わってしまった。

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