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固有名で呼びかける

半田孝輔

あるときを境に、人の名前を姓で呼ぶことをやめた。もちろん、それは関係性や親しさの度合いにもよるが、極力「姓」ではなくその人に固有の「名」で呼ぶようにしている。

記事を書く際に取材相手を登場させるときには、たとえば「影山さん」のように姓で呼ぶ書き手は多いのではないか。これまで読んできた記事のほとんどがそうであったし、自分もそれが当たり前のものと思って記事を書いてきた。

しかし、転機は訪れるものである。僕がフリーになってから3年間ずっと関わっている仕事がある。人口約1万人、農畜産や漁業が主産業の小さなまち。そのまちの移住支援サイトで取材記事を書いている。

その土地で生活する人々に焦点を当てた記事。ずっと同じまちで暮らしている人、移り住んで日の浅い人。一人一人の顔が見えるよう、パーソナルな部分や人生にも踏み込んだ内容のものが多い。まちとの関わりが増えるたびに知り合いも増えてきた。

ただ、これは地方の小さなまちあるあるなのだが、知り合う人がみんな同じ姓だったりする。黒木さん、河野さん、佐藤さん、児玉さんなどなど。さらに宮崎ローカルな話をすると「河野」という姓でも読みが「こうの」と「かわの」の2パターンあり、字は「黒木」でも「くろき」さんと「くろぎ」さんのこれまた2パターンあって結構気を使うのである。

掲載される記事が増えていくにつれて「また黒木さん!」な事態に陥った。しかも字は一緒でも読んだときの再生される音は異なるときた。なんだか黒木さんという名詞が「人間」や「人類」みたいな広く一般化されたものになってきてしまい、具体的な個人としての名前ではなくなってきてしまった。想定する読者のことを考えると紛らわしい気もするし、なにより取材相手の生気が失われている気がした。

それから下の名で記載するようになった。「諭志さん」「淳子さん」というようにして。するとどうだ、自分の相手への見方や接し方も変わってきた。他者と向かい合う態度そのものが変わったのだった。それ以来、その仕事以外の記事でも、登場人物を名で呼ぶことが多くなった。インタビューの現場でも、最初は姓で呼びつつ、見計らっては名で呼ぶようにしている。

考えてみれば実生活上で、名で呼ばれることは自分も含めて少ないかもしれない。大人になればなるほど、社会的なポジションや役割が与えられるほど、堅実なイメージのある姓で呼ばれる。しかし、名はその人に与えられた、その人にしかない固有なものだ。その名で呼ばれたとき、そこにはどんな想いや感情があるのだろうか。

あなたの周りには下の名前で呼んでくれる人はいますか。


半田孝輔

ライター・編集者。東京生まれ宮崎育ち。NPO職員、販促・PR職を経てフリーランスへ。紙・web問わず幅広く編集・執筆・広報をこなす。趣味はマラソン、映画、ZINE制作。宮崎市在住。1988年生まれ。


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