第二回「社説 パチンコ・スロット」

 なぜパチンカスはギャンブラーとは呼ばれないのだろうか。日本で認められているギャンブルのはずなのに、パチスロの評価は圧倒的低評価だ。他のギャンブルも例外ではなく、皆こぞってその低評価の波から脱しようと努力している。なのに、なぜパチスロは未だ茨の道を歩み続けるのだろうか。


パチンコ・スロットはクリーンになりうるのか
 まず、パチンコ・スロットは他のギャンブルとは異なり、スポーツ性が少ないことが挙げられるだろう。競馬やボート、競輪などは言わずもがなスポーツであるし、麻雀などもマインドスポーツとして近年歩みを進めている。一方で、パチンコ・スロットは、その機械、いわゆる台にプレイヤーが左右されやすく、ランダム性も高い。プレイヤーが介入できる余地が比較的少なく、台によって成績などが大きくぶれてしまうことが、スポーツ性をなくしてしまっている。

 スポーツ性はクリーンなイメージを打ち出すきっかけとなりやすい。ギャンブルとしての面白さはもちろん、純粋にスポーツとして選手を応援する構図になりやすいからだ。またギャンブル特有の楽して金銭を得てしまっているような、ずるい、といった感情から離れ、努力している様子が見えるのもクリーンなイメージを植え付けている。


ギャンブルであり続ける理由
 では、パチンコ・スロットはスポーツとしてクリーンになる道を立たれているから茨の道を歩まざるをえなければいけないのかと言われると、そうでもない。彼らには純粋に娯楽としての道を歩むことだってできるのだ。

 アニメなどのコラボも多いスロットなどは特に、そういったファンを捕まえやすく、ゲームセンターにも台が並んでいるのを目にする機会も多い。一方で、それが主戦場となることは皆無に等しく、従来のパチンコ店がいまだ主戦場である。

 なぜ、ギャンブルにこだわり続けるのか。簡単に言えばそこに伴う「緊迫感」が、ゲーム性を高めているのだろう。それは、一般に言われるスポーツもそうで、なぜW杯が盛り上がるのかと言われれば、そこに国の期待や選手の人生がかかっているのだろう。それを小さなレベルにしたのがギャンブルなのだ。自分の人生の重要な一部である経済能力をかけて戦っているのだ。パチンカスからすれば、日々のパチンコは自分VS台のW杯なのだ。

 この「緊迫感」に気がついた時、我々に残るギャンブルのマイナスイメージは経済的な破綻から生まれる悲惨な現状であろう。これに関して言えば、もっと世の中で取り上げなければならないのだろう。ギャンブル依存症とは何なのか。返済能力とは何なのか。純粋に借金が悪なのだと教えるのではなく、なぜ悪なのか。どうしてそれでも企業は融資という形の借金を受けるのかなど、経済能力とギャンブルについて、もっと多角的な論争が起きなければ、このマイナスイメージは拭えないだろう。

 なにより、業界自身がこのイメージを拭う気がないのだろう。自分の人生を多少賭けてまで、パチンコをやりに来てくれるのだから良客なのだ。仮にこの問題が社会全体でもっと話されるようになったところで、適切なギャンブルとの距離と言われれば、人々はパチンコには行かないだろうし、逆にマイナスイメージがこれ以上強まることも避けたいのだろう。茨の道に見えるが、彼らの現状最も快適な住みどころなのだ。


まとめ  個人の意見として
 僕自身、パチンコやスロットに対してマイナスなイメージはない。自分の余裕のある範囲で楽しむ分には何も問題はないだろう。一方で、ギャンブル依存症に関しては、もう少し社会が支えていく必要があると思っている。自己責任ではおいきれない病気なのだから、業界がそれをよしとしても、社会的には良しとは言いにくいだろう。今後もIR法云々で、国内にもカジノができていくだろうが、ギャンブル依存症に関しては今一度、伝えていく必要があるのだろう。

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