かずよ@江戸を研究する人

日本初、世界で通用するサービスを生み出すために江戸以前の文化を研究中。 近代化の中で忘…

かずよ@江戸を研究する人

日本初、世界で通用するサービスを生み出すために江戸以前の文化を研究中。 近代化の中で忘れられてきた日本独自の文化の中にこれからの国際社会で生き抜くヒントがある!!

最近の記事

江戸の教育文化とこれからのビジネス - 【識字率世界一:その12】

日本初の育児書『小児必用養育草』 日本最初の育児書とされる『小児必用養育草』は、1703年、香月牛山という人が48歳の時に著したもので、1714年に刊行されました。 牛山は、若い頃同郷の益軒に儒学を学び、後に医学を修めて筑前(福岡県)で開業、さらに京都に出て、貴人の病気を治して一躍有名になりました。 益軒についてはこちらの記事にまとめています。 牛山の兄、香月秀房の序文によれば、本書は人々の小児教育がおろそかなことを嘆いた牛山が、出産から10歳までの子どもの養育や養生

    • 幼少期の年齢別教育法と男女差別 - 【識字率世界一:その11】

      幼少期の教育のルーツ、『小学』江戸時代の子育て論は『小学』『烈女伝』『礼記』『孝経』などの影響を強く受けています。こうした経典については以前の記事で軽く触れました。 『小学』とは、今から約800年前に朱子(しゅし)と劉子澄(りゅうしちょう)という人が、四書五経をはじめとする古い書物の中から大切な教えを選出したものと言われており、『烈女伝』『礼記』『孝経』の記述は基本的に『小学』からの引用だったので、日本の子育て論にもっとも影響を及ぼしたのは『小学』であったと考えられています

      • 寺子屋での競争の仕掛け - 【識字率世界一:その10】

        寺子屋での競争寺子たちは与えられた手本を何度も練習した後、ほぼ定期的に清書を提出する義務を負っており、師匠の合否判定を得ると次の学習単元に進むスタイルが一般的だったそうです。 この際の合格判定を「上げ」といい、数日間ないし1週間に一度の割合で行われたと言われています。 成績の良いものは一回でパスするためどんどん先へ進みますが、出来が悪いとなかなか「上げ」をもらえず、何度も同じ所を練習したため、その進度には著しい差がつきました。 半年ないし一年も練習すれば、大抵は手習本一

        • 寺子屋のリアル2 - 【識字率世界一:その9】

          昨日の記事の続きです。 今回は寺子屋での『罰則』や『反省のプロセス』について纏めていきます。 海外にはなかった『言葉で戒める子育て』日本を訪れた外国人が、日本人の子育てや教育について言及している文章は数多く残されています。 安土桃山時代、ルイス・フロイスというポルトガル人宣教師が日本にやってきた際に、日本人の子育てを見て「子どもにムチを使わずに言葉で戒める」ことに驚嘆したと言われています。 それもそのはずで、同時代のヨーロッパの学校教育は子どもへの接し方が対照的だった

        江戸の教育文化とこれからのビジネス - 【識字率世界一:その12】

          寺子屋のリアル - 【識字率世界一:その8】

          全国に5万校あった寺子屋江戸時代、庶民は一般的に寺子屋(手習塾・手習所)に入門して読み・書き・算盤を学びました。 江戸時代の寺子屋の数は手習師匠を称えた石碑や墓などの研究で、文献に記されていない寺子屋が多数存在したことが明らかとなり、これらを踏まえると全国に5万校以上あったと推察されています。 現在の小学校がおよそ2万3,000校なので、人口比率から考えても全国各地にきわめて多くの寺子屋が存在していたことがわかります。 幕末期の手習師匠経験者や寺子屋経験者からの聞き取り

          寺子屋のリアル - 【識字率世界一:その8】

          絵本の誕生、“遊びと学び” - 【識字率世界一:その7】

          絵入り図鑑の誕生 世界初の子ども絵本はチェコ共和国で生まれた『世界図絵』と言われており、1658年に刊行されたと言われています。 書名の通り、一枚の絵に多くの事ものを書き込んで一つの世界を表現した教科書で「神」から「最後の審判」までの150図に説明を加えたものだったそうです。 実は、ほぼ同じ頃、日本にも独自の子ども絵本が誕生していました。1666年に京都で出版された中村惕斎という人が書いた『訓蒙図彙(きんもうずい)』です。 これは日本最初の図入り百科事典で、1巻の「天

          絵本の誕生、“遊びと学び” - 【識字率世界一:その7】

          江戸の子育て論、“徳育・しつけ” - 【識字率世界一:その6】

          早婚が招く未熟な親の増加江戸時代前期に書かれた『女重宝記』では、当時男子は16、7歳、女子は13、4歳で結婚するケースが多く、上流階級ほど早婚の傾向が顕著だったと書かれています。 これは子どもが密通をしないうちに、また気鬱や肺結核などの病気を患わないうちにと親たちが結婚を急かせたからだと言われています。 ただし、本書には 早婚の結果、若すぎる父は子どもに教える術を知らず、若すぎる母は子育ての仕方が分からない。 さらに若夫婦の生殖能力が未熟である内に妊娠・出産するため子ど

          江戸の子育て論、“徳育・しつけ” - 【識字率世界一:その6】

          0歳からの教育と人間関係のメソッド - 【識字率世界一:その5】

          江戸時代の0歳教育江戸時代の子育ては「胎教」から始まり、さらに乳幼児期の教育が強く推奨されているのがスタンダードで、いわゆる0歳教育がはるか昔から行われていた事になります。 幼児教育の要点を纏めた『比売鑑(ひめかがみ)』という書物の中に以下の様な記述があります。 子育ての失敗の多くは、幼児に接する父母・侍女・乳母などの悪影響によって幼児の本性が損なわれた結果であり、幼児教育においては『表裏』『臆病』『傲慢』の三悪を排除することが重要になる。 すなわち、 子どもを泣きや

          0歳からの教育と人間関係のメソッド - 【識字率世界一:その5】

          子育てに対する親の姿勢 - 【識字率世界一:その4】

          胎教から始まる父親に対しての教育江戸時代には既に『胎教』の概念がありました。胎教は元々古代中国の書物の中で説かれたもので、1640年代にはその考えが日本に入ってきていました。 当時の胎教は妊娠中に出来るだけ善良なものに触れることが重要だと説かれていて、妊婦の心身の状態が胎児に重大な影響を与えると考えられていました。 江戸時代の子育ての特徴として、男性を主体に語るという点が挙げられます。1786年に書かれた『父兄論』では「胎教の道を女子に教えるのは父兄の役目である」と述べら

          子育てに対する親の姿勢 - 【識字率世界一:その4】

          江戸の子育てネットワーク - 【識字率世界一:その3】

          江戸における教育制度を研究する上で、その当時の時代背景を考察することは重要だと思うので、少し範囲を広げて掘り下げてみたいと思います。 高い乳幼児の死亡率子沢山で知られる11代将軍の徳川家斉は、正室と側女40人との間に55人の子をもうけました。ですが、その子ども達の内、40歳以上まで生きたのはわずかに7人だったそうです。 さらに、亡くなった子ども達のうち15歳を超えたのは半分に満たず、38人が2歳未満で死亡しており、将軍というステータスで受けることができた医療レベルでも乳幼

          江戸の子育てネットワーク - 【識字率世界一:その3】

          多様な文化が花開いた社会的背景 - 【大衆の精神性と品位:その3】

          前回の記事では江戸の社会規範としての宗教について調べました。今回はそうした環境の中で生きた人々が何を思い、それがどの様に文化の形成に繋がっていったのか、その社会的な背景について深掘りしたいと思います。 武士と商人の地位18世紀の初頭、それまでは儒教や政治的な体制に対して干渉していなかった商人達も儒学者に加わって儒教の経典や社会制度に対して積極的に研究や批判を行う様になっていきました。 特に大坂とその周辺には町民の出資によって多くの私塾が開設され、そこが商人達の学習の場とな

          多様な文化が花開いた社会的背景 - 【大衆の精神性と品位:その3】

          支配者が利用した宗教観 - 【江戸の宗教観:その1】

          今回は、江戸時代の社会背景として、支配者たる徳川幕府側と、一般市民側が、どの様な宗教観を持っていたのかを深掘りしていきたいと思います。 歴代支配者たちの宗教的施策徳川幕藩体制の様に長期間安定した政権を維持するためには、支配者たちの高圧的・暴力的な支配だけに立脚出来ないことは過去の歴史を見てみると間違いのない事実だということが出来そうです。つまり、権威にとって不可欠なのはそれが社会的に了解され、受け入れられている正当な理念に立脚していることでした。 織田信長も豊臣秀吉も天下

          支配者が利用した宗教観 - 【江戸の宗教観:その1】

          都市部と農村部のパワーバランスの逆転その2 - 【人口世界一:その10】

          前回の続きです。 まずはこの時代の女性の働き方と男性の家事への関わり方をまとめたいと思います。 女性の経済活動への関わり徳川時代の社会通念上は、女性は学問を修める必要はなく、台所にとどまっていればいいと主張されていました。その様な見方を説いた古典的な修身書が儒教思想に基づく『女大学』というもので、内容としては女子を教育するための一般原則と従順な振る舞いに関するものでした。 然し乍ら、実際は女性が豊かな農家や町の商家ないし工房の経営者や共同経営者をつとめるケースも出現し始

          都市部と農村部のパワーバランスの逆転その2 - 【人口世界一:その10】

          都市部と農村部のパワーバランスの逆転その1 - 【人口世界一:その9】

          前回は17世紀の都市部の成長と農村部の発展についてまとめました。 今回は、その好況に続く次の150年間の社会状況についてまとめたいと思います。特にこの期間には、都市部の停滞と農村部の好況というとても特徴的な経済環境が出現した期間でもあったのでその辺りを中心にまとめていきたいと思います。 都市部の景気停滞〜人口の減少〜都市部に関しては、本州の中心部の大都市とりわけ37の主要城下町が1700年から1850年までの150年間で人口が平均18パーセントも減少し、景気が縮小しました

          都市部と農村部のパワーバランスの逆転その1 - 【人口世界一:その9】

          制度によって栄えた都市と自由によって進化した農業 - 【人口世界一:その8】

          今回は今までにまとめた徳川幕府が敷いた制度が、結果としてどの様に都市や人々の生活を発展させたのか、その辺りについて深掘りしていきたいと思います。 都市部の発展の流れ徳川幕府が開かれる直前の16世紀に、日本列島のいたる所で都市は数も規模も拡大しつつありました。その理由として、互いに競い合っていた大名たちが城下町に恒久的な守備隊をおき、そこに配下の将兵たちを呼び集めて編入させたことが挙げられます。これにより都市の規模拡大は加速していきました。また、城下町には武士の他にも物資の補

          制度によって栄えた都市と自由によって進化した農業 - 【人口世界一:その8】

          江戸時代の対外政策 - 【人口世界一:その7】

          前回は江戸の幕府が敷いた庶民の管理システムについて言及しました。 今回はこの時代の海外、もしくは外国人との関わりについて深掘りしていきたいと思います。 家光の鎖国政策の実態徳川期の日本の対外関係の特徴はなんといっても『鎖国』です。 17世紀に徳川幕府は、商品とともに宗教を売り込もうとした国々との交易を断ちました。この方針によって、1540年代以来貿易とキリスト教布教の両方を追求していたスペインとポルトガルが排除されました。 参勤交代の制度が打ち出された時期と重なる16

          江戸時代の対外政策 - 【人口世界一:その7】