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猫と愛してるのあ 第1話


あらすじ  

 宅配ドライバー篠崎あぐりと産婦人科医の田上真生は、猫がきっかけで恋に落ちる。
 寄席での初デートは、あぐりの祖母や叔母がついて来て散々だった。けれど真生は祖母の介護をするあぐりを思いやるのだった。
 二人が初めて愛を交した夜に祖母が亡くなる。責任を感じたあぐりは別れを決意をするが、真生は諦めない。
 やがて祖母が生前友人に出した絵手紙に、二人に末永く仲良くして欲しいと描いたことを知る。
 あぐりは祖母に許された気がして涙ながらに真生と抱き合うのだった。

   1

 柿の木で蝉が一匹鳴いている。夏もじき終わる。

 国分寺町は旧街道を一本入った昔ながらの住宅地である。家々の間を繋ぐ舗装道路は二トントラックと乗用車がぎりぎりすれ違える幅しかない。片側にはアオキの生垣がある。繁ったその葉の一枚も落とさずに二トントラックを停車させた。
「特Å」
 にんまりするとシートベルトを外した。
 宅配便は午前中の配達が勝負である。誰よりも朝早く出庫して滞りなく配達して来た。今日はまだ不在票も出ていない。なかなかいい成績である。
 鼻歌混じりに運転席のドアを開けると冷房の効いた車内に温気が飛び込んで来る。小走りに荷台に回るだけで汗が吹き出すのを首のタオルでぬぐう。
 制服の襟元に入れたタオルは女子事務員や学生バイトに評判が悪い。オヤジ臭い。アイドル顔のイケメンが台無し。だそうである。
 けれど冬場は防寒になるし、夏はこうして汗を拭ける。その発想が年寄り臭いと言われるのは、あぐりがお婆ちゃん子だからだろうか。時に言葉が昭和っぽいと言われるし。
 ほっとけ。平成生まれの二十代だ。
 荷物を出そうとしたところに携帯電話が鳴った。
「はいっ! 足軽運送の篠崎あぐりですっ!」
 ご機嫌で語尾が飛び跳ねてしまう。
「うちの猫がおたくのトラックに乗って行った」
「はい?」
 社用スマートフォンのディスプレイを見ると〝田上真生〟とある。朝一番に配達を終えた客だった。
 本城駅裏に住むこの客は、あぐりの迷惑客名簿のナンバーワンである。月に一度は親戚なのか同じ田上姓発送の荷物を届けている。けれど留守がちで再配送どころか再々配送、再々々配送と何度も足を運ばされ、揚句に荷物の保管期限を過ぎて発送元に送り返すことも稀ではない。そもそも自分で指定した再配送日時に不在にするとは何事だ。
 その迷惑な客がまた迷惑なことを言って来た。
「うちの猫は車に乗るのが好きで。前にも他の会社のトラックに乗って犬吠埼まで行ったことがある」
「犬吠埼は千葉県ですね」
 と、あいづちが適当なのは配送順に組んだ荷物を片手で持とうとしているからである。
「都下のこの真柴本城市から、東京都内を縦断して、千葉に入って、犬吠埼まで行ったんだぞ! トラックの荷台に閉じ込められて! 冬だったからよかったが、今なら熱中症ものだ!」
 って、センテンスごとに区切って言うな。
「さっき荷物を届けてもらってから姿が見えない。三毛猫だ。トラックの荷台に……」
「乗ってません」
 即答したのは嘘ではない。荷台に身を乗り出しているが、猫の姿などどこにもない。だが相手は高圧的に命令するのだった。
「一度の目視で済ませるな。何度でも確認しろ」
「何様だ?」と言いたいところが「うわっ!」と悲鳴に近い声を上げていた。
足元に違和感を感じて目をやると、三毛猫が脚にすりすり額を擦りつけている。思わず飛びのいて、
「いた……三毛猫」
 呟いたのに聞こえたのだろう。
「捕まえろ! 今すぐ連れて来い」
 腹の底に響くいい声である。って、聞き惚れている場合か。
あぐりのこれまでの人生で猫は眺めるだけのものだった。犬なら幼い頃飼っていたが、猫に触れたことは一度もない。三毛猫はきょとんとこちらを見上げている。
「捕まえたか⁉」
いや、だから……。スマホをそっと荷台に置いた。こわごわ三毛猫の両脇に両手を差し込み持ち上げると、
「うわっ? わわわっ!」
 猫の身体というやつは、まるで餅のように伸びるのだった。
「どうしたっ⁉ リリカは無事か!」
 荷台のスマホが叫んでいる。
「伸びたっ! 猫がみょーんて伸びて……キモッ。ぬるぬるする」
 がっちり硬い犬の身体とのあまりの違いにゾッとする。
 気がつくとアオキの根元からトラ猫がこちらを睨んでいる。額に〆印の傷跡がある巨大なトラ猫は、どことなくヤクザじみている。因縁つけられたらヤバイ。必死で三毛猫を抱え込むと運転席に回り込み、ドアの中に放り込んだ。
「1013 確保っ! 午前中の配送が終わり次第連れて行きます」
 ちょっと刑事ドラマを真似て言う。途端に怒鳴り返される。
「今すぐだ!」
「配送中です。今は無理です。猫なんかのために……」
 言いながらきょろきょろしているのは、巨大トラ猫に襲われないか用心している。
「なんかとは何だ! 年寄り猫だぞ。勝手に連れ出しておいて、何かあったらどうする⁉」
「連れ出したって……猫が勝手に乗っただけだろう!」
 あっと思った時にはタメ口で言い返していた。接客対応・特ÅからCに降格。
「今すぐ連れて来い。篠崎あぐり! それとも本社にクレームするか?」
 ぐりぐりと拳固で頭を押さえつけるような勢いである。普段から命令し慣れているような口調だった。
「今行く!」
 完全に仇に対する物言いで、叩き付けるように電話を切った。ちらりと見たアオキの根元にトラ猫の姿はもうなかった。
 朝一番に行った場所にまた戻るなどあり得ない。午前中の配送が遅れれば、午後の配送や集荷も順繰りに遅れて行く。昼休みに休憩室でゆっくり弁当を使う暇もないだろう。
 客があぐりをフルネームで呼び捨てにしたのは、これまでに何度も発行した不在連絡票に記された名前を覚えたのだろう。それほど何度も再配送させられているのだ。
一方こちらは〝田上真生〟の読み方も知らない。たがみしんしょう? 何が志ん生だ! と毒づいても笑うのは婆ちゃんか叔母ちゃんぐらいなのも忌々しい。
力任せにアクセルを踏みそうなところを辛うじて抑える。運転だけは特Åを保持したい。
助手席を見れば三毛猫はちんまり丸まっている。実際のところ怯えているのか寛いでいるのか、あぐりには見当もつかなかった。

本城駅裏は、歓楽街と低所得者向け安アパートが混在している地域である。二トントラックがぎりぎり通れる隘路が続く。大体この道が一方通行でないのも謎である。行政区域が本城町だからに違いない。そう思うあぐりは真柴町の生まれ育ちである。
 そも真柴本城市は、昭和の中頃に真柴町と本城町が合併して出来た市である。山国の隣県とよく間違われるが、一応東京都下である。都心からの急行列車は本城町に停車する。そして次の駅は隣県だから、東京最後の都会といっても過言ではない。
 駅のホームは何番線もあるし、駅ビルは二十一階建てのシティホテル付きだし、駅前コンコースも見事なものである。と本城町民は思っている。
 なのに市の名称で後れをとった。本城真柴市ではなく真柴本城市に決定された時、町民はこぞって歯噛みをした。というのが婆ちゃんたちの昔語りである。
 何せ真柴駅ときたら木造駅舎で駅前ロータリーは舗装もされていないのだ。ホームはわずか三番線で、停まるのは各駅停車だけである。真柴町民が口惜しがるのはこの点である。もしここに急行が停まれば、いきおい駅前開発もされたはずだと。この際、恨むべきは鉄道会社なのに町民はこぞって本城町を恨むのだった。
 絶対多数の目くそ鼻くそ。
 そんな諍いはあぐりの知ったことではないのだが、幼い頃から吹き込まれた思想(?)は、いざとなれば無意識に顔を出す。本城駅南に住む客など、ろくでなしだ! そうして戦争は起きるのだな。などと話を大きくしている場合ではない。三毛猫がにゃんと鳴いた。
 猫を両手で抱えてトラックを降りる。車を停めた通りから更に細い路地を入った突き当り、日の差さない木造モルタル二階建てのアパート。その一階奥が田上真生の部屋だった。
 足音が聞こえたのかノックをするより早くドアが開いた。
 偉そうな顔をした田上真生は、あぐりが差し出す猫を見もせずに、
「違う。家にいた」
「はい?」
「リリカは押し入れの天袋に隠れていた。それはどこの野良猫だ?」
「何だと!」と罵声が出そうな怒気をいち早く読み取ったのか三毛猫は、あぐりの腕の中で身をよじるや力一杯腕を蹴って、開いた玄関の中に飛び込んで行った。
 左手の甲にびりっと痛みが走ったかと思うと、鮮血が吹き出した。
「いって……てて」
 にわかに弱気になったあぐりの手を掴み田上真生は室内に引きずり込んだ。玄関のすぐ横にある台所の流しに連れて行く。あぐりは土足のままである。
「えっ? やっ、靴! 何?」
 言葉にならない悲鳴を上げるが、田上真生は黙ってあぐりの左手を水道の蛇口の下に引き寄せるとじゃあじゃあ水で流し始めた。
「野良猫の爪には雑菌が多い。体内に入ると厄介だ」
 と傷口をぎゅうぎゅう揉んで血を絞り出さんばかりにしている。猫に引っ掻かれたよりこっちの方が痛い。
「痛い痛い痛い!」
 引き抜こうとするあぐりの手を抱え込んで、更に水で血を流す。
ステンレスの流し台に真っ赤な血が水に流され渦を描いて消えて行く。それを見ているうちに、ふっと意識が遠のきかける。背後に立つ田上はあぐりより少しばかり背が高く、ふらついた頭がちょうど肩口に乗る。
「いや。貧血になるほど出血してない」
 いちいち言うことが腹立たしい男である。
 二人で台所の床に座り込む。部屋の奥でガサガサ聞こえるのは、あの三毛猫が動いているのだろう。いや、リリカとかいう猫かも知れない。
田上はポリエステル素材の大きな黒いバッグを引き寄せてファスナーを開けた。医療用具が詰まっている。往診鞄なのか。中から消毒薬付きカット綿を出して傷口を吹き、薬を塗ると絆創膏で傷口を覆い包帯まで巻いている。
「お医者さん……ですか?」
「産婦人科医だ」
「はい?」
 あまりに意外過ぎて間近に顔を見つめてしまう。苦み走ったいい男とも言えるが、暴力団幹部にふさわしい凶悪顔とも言える。この顔で新生児を抱かれたら怖いだろう。
「外科医の顔だと言われる。切り刻むのが得意な」
 と独り言ちる田上。いや別に誰も何も言ってないし。
 医者がこんな貧乏臭いアパートに住んでいるのか? と室内をちらちら見れば、
「金がないんじゃない。引っ越す暇がない」
 と言う田上。だから別に誰も何も訊いてないって。
 手当を終えると田上は部屋の奥に入って行き、三毛猫をキャリーバッグに入れて持って来た。争った気配もないのに、どうやって猫をバッグに詰め込んだのか? あぐりには謎でしかない。
「悪いが、この三毛猫は元の場所に戻して来てくれ。バッグは暇な時に返してくれれば……」
 と言いかけて、ふいに目を泳がせた。
「いや、もう捨ててくれ。すまなかった」
 と頭を垂れる田上真生。あぐりはキャリーバッグを受け取りながら何故か、
「たがみしんしょうさん?」
 と尋ねていた。ぽかんと口を開けてあぐりを見つめると、田上はにわかに吹き出した。笑うと目尻が思い切り下がって可愛い。
「しんしょうって……わざわざそんな読み方をするか? まさおと読まれたことはあるが」
「じゃあ、まさおさん?」
「まお」
 女みたいな名前だ。フィギュアスケート選手に浅田真央とかいう名前の女子がいた。
「まおは女性名とは限らない」
 だから何も言ってないってば。この男は何だってこんなにも人の心を勝手に読み取るんだ?
 少し不快になり黙って部屋を出た。土足で台所に上がっていたから、靴を履く手間もない。ドアを閉めた後も田上真生は何も言わなかった。
 トラックで国分寺町に戻るが、ステアリングを握るのに左手の包帯がビミョーに気になる。何とかアオキの生垣がある家まで戻り、キャリーバッグの扉を開ける。たちまち三毛猫は飛び出して、きょろきょろ辺りを見回すと生垣を潜って庭に入って行った。

 結局あぐりが午前中の配送を終えたのは1255。午後の配送が始まる五分前だった。
 会社に戻って休憩室の冷蔵庫から弁当箱を取り出す。婆ちゃんの手作りである。毎朝弁当と熱いほうじ茶入りのサーモスタンブラーを渡してくれる。
サーモスタンブラーを運転席に忘れて来たが、取りに戻る暇はない。水道水をコップに注いでいると、江口主任がやって来た。
「篠崎くん。どうしたんだ?」
 と、あぐりの包帯が巻かれた左手を手に取って顔を覗き込む。
猫騒動について話して聞かせる間、主任は両手で包帯を撫で擦っていた。その左手薬指には結婚指輪が光っている。
「そりゃまた迷惑なことだな」
 包帯の左手を更に引き寄せると、
「今夜はスワンで?」
 あぐりの耳元に口を寄せて囁いた。
「だから今日は上がりも遅くなると思うし……」
「いいよ。待ってる」
 と耳朶を舐めそうな勢いだったが、にわかに身を離した。パート主婦の三田村さんや学生バイトの森林コンビが入って来たのだ。
「篠崎さーん。戻るの遅いから午後の荷物組んじゃいましたよ」
 と森くんが呼びかけるのに礼を言う。
「どういたまして」
 と答えるのは林くんである。
 森林コンビに任せると律儀に町名順に荷物を組んでしまう。客によって回る順番が前後する場合もあるので自分で組みたいのだが、仕方がない。
テーブルに弁当箱と水のコップを置くと席につく。
「お茶入れてあげようか?」
 言いながら三田村さんは既に急須にお茶っ葉を入れて湯を注いでいる。
 ランチクロスを広げて弁当箱の蓋を開けると、息が止まった。
 箱に白い玉が八個ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。八個のゆで卵。中には、ぱっくり腹が割れて固ゆでの黄身がのぞいている物まである。
 あぐりは卵を愛している。だから婆ちゃんは弁当に何かしら卵料理を入れてくれる。卵焼き、煮卵、出汁巻き卵、オムライス、カツ煮の卵とじ……そして今日はゆで卵だが。
 その横に湯呑みを置いて三田村さんが、
「あらら、すごい。タンパク質だけ摂るダイエット?」
「はは……まあ、ね」
 仕方なくテーブルに常備してある食卓塩を振りかけて、ゆで卵を頬張る。
 婆ちゃんの惚け具合はだんだん侮れなくなっている。
 料理の味付けや量も時々異常になる。大鍋に大量に筑前煮を作ったこともある。味付けが濃すぎてとてもよそにはお裾分けできず、あぐり、叔母ちゃん、婆ちゃんの三人でちびちび食べて結局半分以上廃棄したこともある。
 真柴町の大吉運送といえば、この地ではちょっと知られた配送会社だった。あぐりの爺ちゃんが興した会社である。真柴町と本城町が合併する頃には大手の足軽運送、まほろば運輸だのが参入して来て、大吉運送は規模を縮小せざるを得なかった。あぐりが成人するまではかろうじてトラック数台で営業していたが、今はとうに廃業している。
 なのに建物は昔のままで、婆ちゃん、出戻り叔母ちゃん、あぐりのたった三人で暮らしているのだ。
 台所や食堂の広さは、ちょっとした社員食堂並みである。欅の一枚板で作られたテーブルなんぞ、あぐりが寝そべっても余りある大きさである。あぐりが生まれるずっと前、創業十周年記念に奮発したそうである。昔はこの食卓に簡易テーブルも加えて社員や家族十人以上が入れ代わり立ち代わり席に着いては食事をしたものだった。
 今やそこでちまちま三人分の料理をするのである。婆ちゃんには家族や社員ら大勢の食事を賄っていた記憶が色濃く残っているのだろう。
「すっげ! メッチャゆで卵」
「マジ? 篠崎さんの弁当マジ?」
 森くんと林くんが声を揃えて驚いている。これであぐりは社内に〝ゆで卵弁当マン〟の名を馳せることになる。大小関わらずこの二人に知られた情報は漏れなく社内に広まることになっているのだ。
 三田村さんはテーブルの隅にあった菓子折りから、どらやきを一つ取り出すと湯呑みの横に置いた。
「及川さんがお別れに置いてったの。ダイエット中でも食べるのよ。こういうのはカロリーゼロなんだから」
「あざーっす! 遠慮なく」
 あぐりはフィルムを剥いて甘いお菓子を頬張った。
及川さんとは最近辞めたベテランドライバーである。あぐりが入社当初、助手席に乗って指導してくれた先輩でもある。すっかり甘くなった口の中に湯呑みのお茶を流し込む。
左手の三毛猫にひっかかれた傷は長い尾を引くようにいつまでもひりひり傷んだ。

  2

 田園地帯を切り裂くように走るのは高速道路に向かう一本道である。田畑の中に現れるのはガソリンスタンド、回転寿司、スーツの店にボーリング場など大型店舗ばかりである。
 その合間に様々な趣向を凝らしたラブホテルが点在する。江口主任が言ったスワンとは、壁面に白鳥の絵が描かれたラブホテルである。
 仕事を終えた夜九時過ぎ、あぐりは中古のホンダでホテルスワンに到着した。主任は既に部屋で一人ビールを呑んでいた。主任との逢瀬はいつも別々の時間にホテルに入る。場所もその時々で変える。
地方都市の噂の恐ろしさはSNSの比ではない。男同士でラブホテルに入って行った。などと一度でも知れればもはや人生終わりと言ってもいい。ダイバーシティだのLGBTQだのは土着の言葉ではない。どこか遠くの都会で流布している目新しい流行語に過ぎない。
 あぐりにそんな小難しい知識があるわけではないが、土着の配送会社に生まれ、マッチョを誇るトラックドライバー達に囲まれて育ったのだ。いやでも自分の異質さを思い知らずにはいられない。絶対多数ではない自分。
 そんな自分は左手の薬指に指輪を付けた中年男性に服を剥がされ、ラブホの風呂場で身体を洗われている。包帯を巻いた左手にはタオルを巻きつけてあるが、濡れるのは避け難い。
 まるで罰ゲームであるかのように主任はあぐりに左手を上げさせて、身体を泡だらけのボディースポンジで洗っている。待ちくたびれて缶ビールを何本も空にしている主任である。酔漢のしつこさで下半身は殊の外丁寧に撫でさする。勃つからやめて。いやいいんだけど。でもここじゃいやだ。
「待って待って待って」
 というあぐりの制止に聞く耳もなく、そのまま浴室で一戦に及ぶ。
 しまいには「後で巻いてやるから」と包帯も解かれて、猫のひっかき傷を舌で舐め回される。
 息を荒げてベッドに転がり込むとスマホの着信音が鳴った。叔母ちゃんからの電話だった。
「お婆ちゃんがいないのよ。知らない?」
「知らない」
 全裸の主任に組み伏せられて、乳首を舐め回されながら耳にスマホを当てていた。辛うじてまともな声が出せた。
「夕ご飯の後片付けをしている間に出て行ったみたいなの。テレビを見てると思ったのに。点けっ放しでどこにもいないのよ」
「すぐ帰る」
 と電話を切った。
 あぐりのスマホの待ち受け画面は婆ちゃんの写真である。全身、バストショット、顔写真といろいろ入っている。以前それを見て主任は〝婆ちゃんコンプレックス〟〝ババコン〟などと言ったものである。わざとその画面を見せながら、
「また迷子になったらしいから帰るよ」
 そそくさと身支度を整える。主任は未練たらたらで、
「ええ? 久しぶりなのに」
 と、包帯を解いたきりの左手を強く握り締める。「もう一回やったからいいだろう」とは言わずに手を振りほどく。傷はまだ痛むのだ。
 ふと思う。あの男……田上真生なら思っただけで言い返しそうな気がする。「一回じゃ足りない」とか何とか。ああいう高圧的で反社的な顔の男は間違いなく女好きである。そうでなくとも同衾する気はさらさらないが。

 スワンホテルを出て本城駅に向かう。田んぼの果てにある神社を通り過ぎ、坂道を下りかけて、ふとバックミラーを覗いた。何か白い物が映っている。速度を緩めながら注視すると、白い着物に浅黄色の袴を着けた神主の姿らしい。そしてその横に、ワンピースにサンダル履きの婆ちゃんがいる。そのまま車をバックさせた。
「おお。あぐりっち! やべーよ、やべーよ! いや、お宅の婆ちゃん」
 と神主装束の若者がチャラい言葉で話しかける。あぐりの高校時代の先輩である。
「はにわ公園に孫を迎えに行くとか。マジかよ? 今お宅に電話しようと思ってたとこ」
 と先輩は婆ちゃんを誘って助手席に乗せる。
 あぐりがシートベルトを付けてやる間も婆ちゃんは、
「ご親切にありがとうございます。でも孫の崇が、はにわ公園で遊んでいるから迎えに行ってやらないと」
 などと頭を下げている。
 はにわ公園など今はもうない。かつて大吉運送の敷地の裏にあったが、今はフツーに建売住宅が建っている。そもそもこの神社とはまるで方向が違うし。
「崇って……兄ちゃんは横浜に住んでるだろう」
「どちら様かしら。失礼だけど、あなたは崇をご存知なの?」
「…………」
 気がつくと宮司が運転席のガラスを指で叩いている。窓を開けると身を乗り出して小声で、
「あぐりっちに、うちのババアが死んだこと連絡したっけ?」
「聞いてる。去年だろ。婆ちゃんか叔母ちゃんが葉書もらってると思う」
「だよね。いや一瞬、知らないで会いに来たのかと。うちのババアとメッチャ仲良かったし」
「ああ、いや……大丈夫。ご迷惑おかけしました」
 と、あぐりは窓を閉めると車を出した。
 バックミラーに宮司らしからぬ仕草で手を振り袂を泳がせる姿が小さくなった。あの先輩はパンクバンドをやっていたはずである。いつの間に大人しく家業を継ぐ気になったのか。
「ねえ、あっちゃん。お兄ちゃんがいないのよ」
 ふいに婆ちゃんは意識が戻ったかのように、あぐりの肩を揺する。
「兄ちゃんは横浜にいるってば」
 長兄の崇は横浜で既に一家を構え、子供も二人いる。大吉運送を継ぐために大学で経営学を学び、いずれは引っ越し業も始めると言うから、あぐりはそれを手伝うべく高卒で大手引っ越し会社に就職したのだ。
 けれど大吉運送が引っ越し屋になることはなく、兄の崇は横浜で自動車部品や工具の小さな商社を興した。あぐりも引っ越し会社を辞めて、足軽運送に転職して三年目である。ちなみに主任との不倫関係はここ一年足らずである。
「さおりはどこにいるの?」
「さおり姉ちゃんはもうお嫁に行ったろう。旦那さんの実家の松山にいるよ」
「そうだったかしら? じゃあ、まゆかは?」
「まゆか姉ちゃんは東京でOLしてる」
「もうお嫁に行ったの?」
「まだ独身だよ。浦安のワンルームアパートに行ったことあるだろう。あれ? あそこは東京じゃなく千葉かな?」
 認知症老女相手の一家総ざらいが始まる。家までの道を運転しながらあぐりは家族一人一人の現況を話して聞かせる。もう何度も話したから流暢なものである。
「大河はどうしたの? 長男なのに」
「お父さんはパラグアイにいる」
「パ……? どうしたの? 何なのそこは?」
「俺が聞きたい。南米パラグアイだよ。首都アスンシオン。牧場経営だか牛肉やジャーキーの輸入販売? 何かそんなんやってるらしいよ」
「だって、大吉運送があるのに……」
「大吉運送は兄ちゃんが継いだよ。もう廃業したけどね」
「大河がパ……何とかにいるなら、悦子さんも一緒に行ったの?」
「お母さんは死んだ。十年前にくも膜下出血で。その後、お父さんは家に帰らなくなって……何でパラグアイに行ったんだか? 謎だな」
 謎の父親は時々ビーフジャーキーだの赤ワイン、マテ茶などを送って来る。それも業務用を大量に送って来るから段ボール箱のまま納戸に押し込んである。
「香奈は?」
「叔母ちゃんなら家で待ってる」
「あの娘はお嫁に行ったんじゃないの?」
「北海道にお嫁に行って、明日香ちゃんを産んで戻って来た。明日香ちゃんは俺達と一緒に育って、今は札幌のテレビ局に勤めているよ」
「あなたはどちら様だったかしら?」
 また婆ちゃんの記憶が闇の中に霞んだところで中古のホンダは家に着いた。
 車の音を聞いて叔母ちゃんが駐車場に駆けつけた。婆ちゃんの末娘であるところの香奈叔母ちゃんである。
 玄関を飛び出しても家の角を回ってこの駐車場に来るには少しばかり距離がある。勢いよく走って来た叔母ちゃんは、地面に敷いた砂利に足を取られてたたらを踏んだ。
「よかった、お婆ちゃん! どこまで行ってたの?」
「本城駅南の坂上神社にいた」
「坂上神社って……あんな所まで歩いて行ったの?」
「多分、真柴駅から電車で本城駅に出て、バスで坂上神社まで行ったんじゃないかな?」
 呆然とする叔母ちゃんに推測を話しながら、あぐりは婆ちゃんのシートベルトを外してやった。
 意外と人は老人に目を留めない。迷子になって何度も探すうちに気がついた。真柴駅のような小さな駅ならば無賃乗車は簡単に出来る。この辺の悪ガキどもは学生時代に一度はやったことがあるはずだ。都心から通勤客が帰る時間帯でもある。バスも何とか紛れ込んで乗ってしまったのだろう。
 婆ちゃんは車を降りると、ためらうことなくまた家の外に出て行こうとする。叔母ちゃんが砂利を蹴立てて全身で婆ちゃんに飛びついた。
「どこに行くの!」
「あっちゃんがいないよ。探しに行かなきゃ。あっちゃんはどこに行ったの?」
「いや、婆ちゃん。俺ここにいるって。あぐりだってば」
 言われて婆ちゃんはあぐりの姿をじろじろ眺めて、
「何言ってんの、この人は。あっちゃんはまだ赤ん坊じゃないか」
 崇兄ちゃんは十才年上だから、それがはにわ公園に遊びに行く小学生なら、あぐりはまだ赤ん坊である。その辺の辻褄は合っているが、婆ちゃんの記憶は何年前に飛んでいるんだ?
「あっちゃんはもう大人なの。お婆ちゃんが探さなくてもいいの!」
 怒鳴るように言って叔母ちゃんは、その腕をぐいぐい引っ張って玄関の中に入って行った。
 今、自家用車の駐車場になっているのは、家の横手のプレハブ物置小屋の前である。じめじめした北向きの明かりもない薄暗がりである。
 以前は大吉運送のトラック駐車場に自家用車も停めていたが、今そこは月極駐車場になっている。あぐりのホンダや叔母ちゃんの軽自動車は暫定的にこの位置に停めてある。それに昔誰かが使っていた自転車やバイクなども並んでいる。土地はそこそこあるから何でも置けるが、仮置きというイメージは否めない。
 足元を良くするつもりでぬかるみに砂利を敷いたが、逆に足をとられがちで年寄りがいる家には危険でしかない。何か対処しなければと思ったきり手つかずである。
〈婆ちゃん見つかったよ。すみませんでした〉
 主任にLINEを送る。
〈明日のシフトは午前中だろう。午後にまた続きはどうかな?〉
〈ごめん。明日午後は用がある。また今度お願いします〉
 明日の午後は真柴町の地域包括センターからケアマネージャーがやって来る。これまで要支援だった介護認定の再調査である。おそらく要介護になるだろうが、叔母ちゃんとあぐりで婆ちゃんの現状を話さなければならない。横浜の兄や浦安の次姉も帰って来て今後の介護計画について家族会議も開かれる。そのためにわざわざ午後休にしたのだ。主任にはシフトを組む時に言ってあるはずだが。
 ちなみに五年前に亡くなった爺ちゃんは倒れるなり寝た切りになった。要介護5と認定され、すぐに特別養護老人ホームに入居出来たのは不幸中の幸いだった。叔母ちゃんはパートを休んで腰を痛めながら、寝たきりの爺ちゃんのおむつ替えから褥瘡防止の寝返りまで面倒を見たが短期間で済んだ。あぐりはたまにそれを手伝っただけである。
 ため息をつきながら玄関を入ると、婆ちゃんが飛び出して来た。胸には黄色いケロリン桶を抱いている。
「市川湯で一風呂浴びて来るよ。みんなもう行ってるんだろう。松枝ちゃんに挨拶しなきゃ」
「松枝さんはもう施設に入ってるの! 市川湯が最後の日に挨拶に行ったでしょう!」
 部屋の奥から叔母ちゃんが怒鳴っている。語尾全てにビックリマークが付くのは如何ともし難い。
「婆ちゃん。市川湯はもう何年も前に取り壊しになって、今はマンションが建ってるよ。ドライバーのみんなも、もういないんだよ」
 と、あぐりは婆ちゃんの背中を抱くようにしてまた家の中に入らせた。
 かつて真柴本城市内には何軒も銭湯があった。あぐりが幼い頃は、ドライバー達が仕事を終えると徒歩五分の市川湯にこぞって入りに行ったものである。婆ちゃんの記憶はその頃に戻っているようである。今や真柴本城市に銭湯が何軒残っているのか、あぐりには知る由もない。
 時々あぐりは自分もパラグアイでも横浜でもいいから逃げたいと思ったりする。けど叔母ちゃん一人を残して行くわけにはいくまい。またため息をつきながら二階の自室に上がるのだった。

「せんど仲買の弥一が取り次ぎました道具七品のうち、祐乗光乗宗乗三作の三所物、ならびに備前長船の則光、四分一拵え横谷宗珉小柄付きの脇差な……」
 大音声で叩き起こされ、慌てて起き上がろうとした途端にベッドから転げ落ちた。
「ばーーーちゃーーーーん!!」
 音に負けない大声で絶叫した。もう一度叫ぼうと思う頃に音は小さくなって消えた。落語「金明竹」である。
 あぐりはまだ頭がぐらぐらしたまま床に寝そべっている。窓からはカーテン越しに朝の光が差し込んでいる。スマホは見えないが、おそらく朝四時頃だろう。
 落語は祖父母の代から家族の趣味である。土曜や日曜になると、夜も明けぬ早朝に落語番組がある。それを見るのが婆ちゃんの習慣で、次第に音量が大きくなっては叔母ちゃんがボリュームを下げるのがここ最近の新しい習慣である。
 早朝番組など録画して見ればいいものを、年寄りはリアルタイムでテレビ前に陣取って見ないと気が済まないらしい。テレビも大吉運送の名残ででかい。食堂からも居間からも見える70インチである。その音量を最大にして見るのだから二階のあぐりの部屋の床さえ震える。
「あっちゃん。仕事に行くんじゃないかい? あっちゃん」
 気がつくと祖母ちゃんに身体を揺すられていた。「金明竹」で叩き起こされて床に転げたまま、丸まって二度寝をしていた。毛布も掛けていないから身体が冷えたのか、ぼんやり熱っぽく頭痛もする。のろのろと起き身支度をしたが食欲もなく、ほうじ茶だけ啜って車に乗った。
「今日は午後からケアマネさんや横浜の崇さんが来るから。なるべく早く帰って来てね」
 と勝手口から出て来た叔母ちゃんが言う。車窓を覗き込んで今更、
「どうしたの、その手?」
 と示すのは左手の甲である。夕べ帰ってから猫のひっかき傷に貼った大判バンドエイドが半分剝がれかけている。
「別に」
 と右手で押さえるが、なかなか素直に貼り付かない。粘着力が落ちているのだろう。
 家の救急箱が充実しているのも大吉運送の名残である。大きな箱に絆創膏に包帯、湿布薬、消毒薬に鎮痛剤など家庭用常備薬が詰まっている。そこから適当に抜いたバンドエイドは消費期限が過ぎていたのかも知れない。
 剥がれかけのバンドエイドがひらひらする左手でハンドルを握るのが鬱陶しい。頭はずきずきと鼓動に合わせて痛んでいる。起き抜けよりも更に頭痛が激しくなっている気がする。
 
 土曜日指定の荷物がいくつかあった。田上真生宛にも書籍や贈答品らしい箱が三つも届いている。本城駅南の狭い路地にトラックを停めて、荷台から出した箱をまじまじと眺める。出荷元の〝Amazon〟は誰でも知っているだろうが、もう一社の名称〝ゴールドバンブー〟は知る人も少ないだろう。
 贈答品を装ったデザイン段ボール箱で中身は「雑貨」などと記してあるが、実際はバイブかローターか、はたまはコンドームかローションか。大人の玩具に違いない。所謂アダルトグッズの販売会社なのだ。
 木造モルタルアパートに向かいながらニヤニヤしてしまう。あの偉そうな男がネット通販でこそこそと大人の玩具を買い漁っているなど大笑いである。
いや、普段はお客様の荷物を詮索などしない。プロの宅配ドライバーであるからして。足軽運送では、仕分、荷組、運転、配送、接客、全ての項目で「特A」評価を誇る篠崎あぐりなのだ。
 ドアをノックしようとした途端に向こうから開いた。
「足軽運送です。たがみまお様にお届け物。三つです」
 いつもは田上様で切り上げるところをちゃんとフルネームで呼んでやった。
 どうだどうだと自慢顔で箱を差し出してから気がついた。〝ゴールドバンブー〟はゲイ専門のアダルトグッズ店である。だからこそ、あぐりが知っているのだ。
 思わず箱越しに田上真生の顔を見つめてしまう。起き抜けなのか後頭部の髪が寝ぐせでツンツン立っている。
 三枚の受領書に判子を押してもらう間も、失礼なまでに顔を凝視していた。どうも足元がふわふわして立っているのがきつい。努めて姿勢を正す。
「ちょっと待って」
 と田上真生は三つの箱を床に置くと、台所の隅にある例の黒い往診バッグを開けて、
「測って」
 また命令口調で体温計を差し出した。
 思考力が失せたまま、あぐりはそれを脇の下に挟んだ。左手がひやりとすると思ったら、田上が掴んだのだった。改めて見る自分の左手は甲のひっかき傷を中心にぱんぱんに膨らんでいる。バンドエイドはいつどこで剥がれたのか、姿形もない。何となくあたりを見回しながら、
「それ、ゴールドバンブーの商品でしょう」
 と目についた件の箱を指差している。
 チチチチと小鳥が脇の下で鳴いている。いや体温計だった。
「39度2分」
 勝手に脇の下から取り出して田上真生が言う。
「へへっ」
 と篠崎あぐり。何故笑った?
 今度は額が冷たくなった。額に手を当てられたのだ。
「それ、ゴールドバンブーの商品? ねえ。ゴールドバンブーでしょう?」
 と、しつこくにやにやするあぐり。
「だから?」
 と田上真生が思い切り不愉快そうな顔をしたのが記憶の最後だった。

 気がつくと病院の白い天井を眺めていた。
「……科の……先生。至急三階の……に、おいでください」
 とぎれとぎれに院内放送が聞こえる。消毒薬の匂い。ふうわりと壁が揺れたと思ったのはカーテンだった。
 傍らにはパート事務員の三田村さんが椅子に座って雑誌を読んでいた。
「あらら。気がついた? 熱は下がったかしら」
 細長い腕を伸ばして、ごく自然にあぐりの額に掌を当てた。こちらもひんやり冷たい掌である。掛布団の上に出したあぐりの左手には包帯が巻かれている。腕には点滴の針が刺さっている。着ているのは病院の診察衣だった。
「まだ少し熱があるみたいね」
 母親じみた仕草で三田村さんはあぐりの額の髪を撫でている。実生活でも二児の母親だと聞いたことがある。
「お客様から、あぐりくんが熱で倒れたから病院に運ぶって電話があったのよ。主任がトラックを引き継いで。まだ配送して回ってるみたいよ」
 窓からは午後の日差しが差し込んでいる。あのトラックに積まれた荷物は午前中配送のはずだった。人員に空きがなければ管理職の江口主任が配達に行くのも珍しくはないが、まさか自分が熱で倒れるとは思ってもみなかった。
「親切なお客様ね。ここまでしてくれるなんて。後でお礼に行かなきゃね」
「うん……」
「野良猫のひっかき傷から黴菌が入ったみたいよ。猫ひっかき病って病気もあるんですって。あぐりくんのはただの炎症だって。この程度で済んでよかったって先生もおっしゃってたわよ」
炎症は〝圓生〟と変換される代々の落語マニアである。そして先生は〝田上真生〟と変換される。後で知ったが主治医は別人だった。
「ここ……どこ?」
「本城総合病院」
「家には電話しておいたから。お母さんかしら? 後で来てくれるって」
 おそらく叔母ちゃんだろう。喉が痛いので、ただ頷くだけだった。
そこに、ばたばたと廊下から人が入って来る足音がした。「あっちゃん?」と室内に入るなり声をかけてカーテンを開けたのは、浦安に住む次女のまゆか姉ちゃんだった。
「何なの、あっちゃん。みんなもう集まってるのに」
 と非難がましく言う。ちょうどケアマネージャーさんが来て家族会議が始まったところだと言う。三田村さんはまゆか姉ちゃんに挨拶して帰って行った。
「よかったら見る? 今月号よ」
 と置いて行ったのは猫雑誌である。猫にひっかかれて倒れた身で、そんなもの読みたくもなかった。

 あぐりは病院に一泊して翌朝の診察を経て退院した。久しぶりにぐっすり眠った気がする。病院の朝食も意外においしく完食した。診察に現れた女医が眩いような美女だったのも(ゲイだけど)何やらお得な気分だった。
 まゆか姉ちゃんが持って来てくれた服を着て、会社の制服は手提げ袋に入れた。熱も大分下がったので、一人で退院手続きをするに差し支えなかった。だが家に辿り着くにはまだ身体がしんどかった。
病院の玄関を出たきり呆然と突っ立っていると、目の前にシルバーメタリックのランドローバーが停車した。外車のくせに右ハンドルである。助手席のドアが開いた。
「乗って」
 と運転席にいるのは田上真生だった。
 あぐりはまた何も考えずに座高の高い車に乗った。
「刈谷から退院するって連絡もらったから。家どこ?」
「真柴川元三丁目……大吉運送で出る」
 カーナビを指差したが、
「大吉運送なら知ってる」
 と田上はすかさず車を出した。なめらかな発信だった。落ち着いたエンジン音もいい。視界の広いランドローバーの助手席で何の脈絡もなく、いつかこの車を運転してみたいと思うのだった。
 そして、なるほど田上真生があのボロアパートに住んでいるのは金がないからではなく、引っ越す時間がないからなのだと納得したりする。今も時間がないらしく、田上はあぐりを家の前で降ろすと「じゃあ」と、実にあっさり帰って行った。
 車中で話したのは、昨日あぐりが倒れてから本城総合病院に入院させた顛末だけだった。田上はあぐりが身に着けている社用スマホで足軽運送に連絡すると、友人である刈谷医師に連絡してランドローバーであぐりを搬送した。田上の勤務先は産婦人科病院だから、ばつが悪かろうと慮ったらしい。
その場に置きっ放しだったトラックを江口主任が引き継いだというのは昨日三田村さんに聞いた。
 田上のてきぱきとした話に、まだ微熱でぼんやりしているあぐりは「へえ」「はあ」と合いの手を入れるだけだった。ちなみに刈谷医師とはあの眩い美女である。田上と並べば見事なベストカップルだろう。
 車が走り去ってみると家の中からは例によって大音声で落語が響いている。
 今朝は「厩火事」のようだった。髪結いの亭主が妻に大切にしていた皿を割られるが、皿より妻の身を案じる。感激する妻に亭主が言ったのは、
「おまえに怪我でもされてみねえ。明日っから遊んで酒が飲めねえ」
 あぐりは何となく右手で左手の包帯を撫でたりする。
 玄関を入って二階の自室に向かっているところに、
「あら、あっちゃん。もう退院して来たの? 迎えに行こうと思ったのに」
 と叔母ちゃんに声をかけられた。
「うん」と頷き部屋に入ると、手提げ袋保を投げ出してそのままベッドにもぐり込んだ。自分の匂いを妙に懐かしく思う。今さっきまで聞いていた田上真生の低く腹に響くような声を思い出す。あの低音はベッドでどんな風に聞こえるだろう。後頭部にツンツンと寝ぐせがついた硬い髪にも触れてみたい。
 命の恩人に対して何やらひどく不謹慎なことを考えている。構うか。どうせゴールドバンブーの愛用者だ。
 そしてまたとろとろと眠りに落ちていた。

【第2話に続く】全8話

猫と愛してるのあ 第2話 | 



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