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飼い主ガチャ

※写真は2019年撮影。
身延山の白犬。

カロカロ犬

カロカロ犬が散歩している。
首輪のベルが歩くたびにカロカロ鳴るから、カロカロ犬。
私が勝手に名付けた。

この地に越して来た朝、目覚めると外から不思議なリズムが聞こえて来たのだ。
窓の外を覗いてみれば、首に小さなベルを付けた犬が散歩をしているのだった。
夕方にもカロカロ音は窓の外を通って行く。
和犬の雑種だろうか。
朝に晩に散歩をしてもらえる幸せな犬である。

引っ越してその存在に気づいた頃は、肢の不自由な老犬だった。
それが最近気がつくと若い犬になっている。
毛色も似ているから子供なのだろう。
いつの間にか世代交代しているのだった。
それでも飼い主一家は(散歩者は時に老婦人や若い娘だったりする)変わらず朝晩散歩をさせている。

だが、今日の散歩は夕方五時だった。
日差しはまだきつい。
陽に焼かれたアスファルトは裸足の肉球には熱かろう。

ご近所とはまるで没交渉だし、それでなくとも人見知りだ。
「わんちゃんが足の裏を火傷するから、お散歩は夜になってからの方がいいですよ」
などと進言できるわけもなし。
でも、大丈夫かな?
と思いつつ薄暗い過去を思い出す。
私にそんなことを案じる資格はないと。

仙台は八木山動物公園のシマウマ
今春の撮影

実家のわんこ

十代の頃、実家でも犬を飼っていた。
アパート暮らしからマイホームに移って、間もなく飼ったのは血統書付きの柴犬である。
父が知り合いのブリーダーから譲り受けたのだった。
昔のことだから庭に犬小屋を建てて鎖で繋いでいた。
いかに純血種とはいえ犬を家の中に入れて、共に寝るなど考えられない時代だった。
ちなみに餌は当時のデフォルト、味噌汁かけご飯である。
焼き魚がおかずの時には、余った骨や皮をつけてやった。
それをわんこは「うほうほ」と聞こえる勢いで食べたものだった。

そう言えば名前は〝わんこ〟だった。
正式な名前はあったはずだ。
血統書には〝菊姫丸〟だったか〝菊王号〟だったか立派な名前が書かれていた。
けれど、いつの間にか家族は〝わんこ〟と呼ぶようになっていた。
この犬に関して記憶が薄いのは、一年たつかたたないかで亡くなったからである。
鎖を外して外に飛び出して車に轢かれたらしい。
「らしい」と言うのは、道路脇に倒れて息絶えているのを兄が見つけたからである。

次のわんこは雑種だった。
私が中学生の時に同級生の家に生まれた子犬をもらって来たのだ。
まあ、何と言うか……この雑種犬に関しては口を濁したくなる。
可愛がったのは最初のうちだけだった。
やがて散歩にも連れて行かなくなった。

黒い話の清涼剤
今年も紫陽花は美しい

寝床のそばで排泄をしないのは獣の習性である。
散歩で電柱に尿をかけたり糞を残したりしてマーキングする。
夕刻から夜になると散歩を催促して犬はキャンキャン鳴き始める。
散歩に連れてって!
外でしたい!
と必死で訴えているのだ。
切羽詰まった哀切極まりない声である。
今でも時々どこかの家で飼い犬のそんな声を聞くと胸が痛くなる。

二代目わんこ

あの頃のわんこが哀れでならない。
けれど当時の私は、ただ部屋にとじこもっているだけだった。
時に仕事を終えた父が散歩に連れ出すこともあったが。
やがて犬小屋の周りには排泄物が転がるようになる。
あれを掃除したのは誰だったろう。
おそらく父か母だろう。

そして散歩が億劫になった父は、夜中に犬小屋の鎖を外すようになる。
犬は人間の隙を見て、庭を抜け出す。
家の周囲は田んぼや畑ばかりである。
思う存分駆け巡り自由を謳歌したことだろう。
純血種で鷹揚な柴犬と違って、雑種犬はなかなか小賢し……いや頭が良かった。
交通事故に遭うこともなく、翌朝には犬小屋に戻っているのだった。

だが、朝になれば父のお仕置きが始まる。
わんこはそれも先刻承知だから、犬小屋で小さくなっている。
父は新聞紙を丸めた棒で犬小屋をぽこぽこ叩き、犬も叩くふりをする。
「こら!ダメじゃないか!」
と叱りつける。
何せ犬は集団生活を旨とする獣である。
群れのリーダーである父が、長い棒を振り回して怒鳴っているのだ。
尻尾を丸めて縮こまるしかない。
散歩に行かせないでわざと脱走させたくせに。
底意地の悪い飼い主である。
いじめ以外の何物でもない。

私が両親にされていたのもそれに近い仕打ちだった。
丸めた新聞紙でぽこぽこ殴るふりをするような威圧である。
抑圧されて息苦しさに反抗すれば「ダメじゃないか!」と叱責される。
肉体に傷が残るような暴力ではない。
「バカ」「アホ」「まぬけ」といった暴言もない。
だから、大したことはない。と思っていた。
けっこう大したことだったと今ならわかる。

何となれば、私も犬に対して同じ仕打ちをしていたのだ。
腹の底から曰く言い難い憤怒が湧き出ては、本当に歯をぎりぎり食い縛りながら犬をいじめるのだ。
耐えかねて犬が抵抗すれば「こら!ダメじゃないか!!」と𠮟りつける。
正直その時点でも、自分は変だとわかっていた。
けれど、どうにもならない憎悪(誰に対するものかはわからない。少なくとも犬に対するものではない)で鬼のようになっていた。

飼い主ガチャ

雑種犬わんこは、私が大学に入るために実家を離れて間もなくいなくなった。
例によって夜中に鎖を外したところが、帰って来なかったという。
それを聞いても私はただ「ふうん」と呟いただけだった。

そんな飼い主に比べれば、あのカロカロ犬は毎日二度も散歩をしてもらっている。
アスファルトの熱が何程のものだろう。
うちのわんこより数倍も恵まれている。
いや、恵まなかった私自身が言うのも違うだろうが。

最近は〝親ガチャ〟という言葉がある。
恵まれない家庭環境に生まれた不幸を〝親ガチャに外れた〟と諦めたり慰めたりする言葉らしい。
私は社会的にも金銭的にも恵まれた家庭に生まれたと思う。
だが〝親ガチャに外れた〟と思っている。
あのぎりぎりと歯ぎしりをするような憤怒にまみれた家庭環境が恵まれていたとは思えない。

雑種犬わんこも〝飼い主ガチャ〟に外れたのだろう。
とうとう実家に戻らなかったわんこが、今もどこかでさまよっている。
心優しい飼い主のいる家を探しているに違いない。
時々そんなことを思ったりする。

※黒歴史をお読みくださりありがとうございました。
最後にフランネルフラワーの写真でもどうぞ。









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