小説・「はたらきもの、の手」(6)

「ピアノ習ってみたい」里香は純には、そんな子供じみた口調で話してしまう。
「あ、いいんじゃない?」
「習ってた?」
「うん。少しだけ。でもすごく嫌ですぐやめた」
「私は習ったことないんだけど、どうやって始めたら良いんだろう」
「教室に行くと面倒な手順があるから、ひとまず何かキーボードとか買ってみて練習するとか」
「それ楽しそう」
「家電屋さん行ってみる?」

 家電屋には、電子ピアノのコーナーがあって、小さなキーボードからそれなりに大きなものもあった。子供がひとり、途絶えがちにジブリの音楽を弾いて遊んでいたけれど、里香たちが来るとやめて走って行ってしまった。
 悩んだ末、かろうじて持ち運べるサイズの六十一鍵盤のキーボードを買い、ふたりで運んだ。休日とはいえ、昼間だったから電車も空いていた。純の家に置くことになった。ベッドの上に載せて、その前に正座をして、練習をした。Amazonで検索し、初めてでも必ず弾けるようになる、というピアノの練習の本を買った。スマホでお手本動画を見られるものだった。キーボードは純の家にあるから、ほとんど毎週末、純の家に行くようになった。最初はほんとうに下手だったけれど、子供の頃、音楽の時間に習ったことを思い出し、次第に簡単な曲が弾けるようになった。純の誕生日にはハッピーバースデーを弾いた。
 ここに住んだらもっと練習出来るのに、というようなことを言ったのは里香の方だった。軽く、口をついて出てしまった。
 ここは狭いから、二人で住めるところ探す? と聞いたのは、純の方だった。
「犬も飼えるよ」と。
 そういうのを「けじめ」がないと言うのかもしれない、と考えながらも、里香にとっては嬉しかった。里香が欲しいのは、結婚でもなく、家庭でもなく、一緒にいる人だった。
 
 二人暮らしをすると、それほど出費もなく、里香は今までよりも多く貯金が出来るようになった。毎日を純と過ごすことはとても幸せだった。犬を飼う話は、純の在宅勤務がいつ解除されるか分からず、躊躇した。
 電子ピアノは今度はちゃんと八十八鍵盤あるものを買って練習した。

 純と出会ってから三年が経った今、里香は迷っていた。
 先週、籍を入れようか、と言われたのだった。
 それだけなら良かったのに、電子ピアノを練習している里香の横に座り、里香の手を取った。里香は自分の手が大きくて、ごつごつしていてあまり好きでは無い。きちんと手入れをして、どうにか見苦しくなく見えるように努めている。両手を揃えるときは、手の先を重ねて見えないようにしていた。
 その手を取られて、反射的に手をひっこめたくなったのを、どうにか我慢した。
「働きもの、の手、だよね。里香ちゃんの手」
 そう言って、握った。
「苦労人で、頑張った人の手」
 里香は困惑した。そんなことを言われて嬉しいだろうか。
「幸せになる権利があるよ」
 里香は何も答えられなかった。足の底からむくむくと感情が湧いてくるのを感じた。純の手が離れると力が抜けた。
「里香ちゃん?」
 純は里香の態度が思いも寄らなかったのか、不思議な顔をした。喜ばれて当然のすごく良いことを言った気分でいる様子だった。
 音を立てずに、里香は息を吐いた。腹の底から全部を出し切るように、鼻から息を吐ききった。足の底から、手の指の先から、頭のてっぺんから、肩の力を抜いて、全部出し切った。そうして息を少しずつ吸った。
「ありがとう」里香は、純の優しさだけを選んで、受け取ったことにした。
 純は安心したような顔を見せた。

 ひとりぼっち。

 里香の頭に浮かんだのは、このひとりぼっちを抱えて生きて行くのは大変そうだと思った。ふたりで暮らしてみて、それまで感じていたのは、孤独だと思えた。 

 担当地区が代わり、最後に永代ビルを訪れた後、里香はその駅に行かなくなっていた。その日は、その手前の駅まで、挨拶に行く仕事があった。それが終わり、思い立って、一駅分を歩いてみた。十五分ほどで到着した。

おーす、じゃあなー、明日なんだっけ、サカモトのやつ、だりぃ
明日めんだーん、ああー、いやだねー
ほんと、うちの親来るのいやだー
分かるー

 ポロシャツを来た高校生がたくさん歩いている。
 自転車を引いている子が何人かいて、駅で別れるのだろう。

リンローン
 リンローン

 改札の音。
 
 ピアノの音色は聞こえなかった。里香は改札を抜け、短い階段を上った。細長い空間にはピアノだけがある。里香は近づいた。消毒液が置いてあることに気づき、手を消毒した。それから、蓋の開いているピアノにそっと触れる。
 いつも練習するときと同じように、両方の指でドレミファソラシド、ドシラソファミレド、を弾く。本物のピアノの鍵盤の重みや、ピアノの中で響く音、それが壁に反響する音、音を身体で感じた。
 二ヶ月ほど同じ曲を練習していた、簡単にアレンジされたパッフェルベルのカノンを弾いた。
 里香は、これは下手だな、と気付いて、可笑しくなった。下手なりに良いところ、というのも感じられなかった。それを誰かに、笑いながら話したくなった。その誰かは、純だと思った。
 純と改札前のカフェで初めて会った帰りに、白髪のサラリーマンが練習していた。普段はプロみたいな人が弾いている気がしたけれど、その人はまだピアノを始めたばかりのようで、練習中、という感じだった。ジブリの「空の青さを知る」という歌詞の曲。なんだっけ、「千と千尋」だ。あの人の演奏には、響くものがあったな。ジブリの映画は子供の頃よく母親がDVDをレンタルしてきて、一緒に見たと思う。「はたらきものの手」という言葉も何か出てきたような気がする。それをきれいな手というような。
 里香はピアノを後にして、帰りの電車に乗るためにホームに上がった。
 すっきりした気分だった。
 ピアノのことは、これまでとは違う感じで、好きだと思った。
 あとで、純にとうとうあの駅で、本物のピアノを弾いてみたんだ、と話してみようと思った。純は、それを恥ずかしいとは思わないはずだ。「お」と言って、笑顔で、喜んでくれると思う。
 それから、プロの演奏をもっと聞いてみたい。作曲家が表現した一音と、それを演奏する人の一音と、そういうものを聞いてみたい。

(了)ここまで読んでくださってありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?