小説・「はたらきもの、の手」(5)

 ペットショップで、ガラスにへばりついている幼い子供たちの後ろから、純と里香は子犬たちを眺めた。子供たちがひととおり見てしまうと、純は少しだけ前に進んでしゃがんでガラスに指を近づけ、さっと動かした。子犬の目線が純の指に従って動いた。
「あ、見てる」
「やってごらん。こっちが見えるはずだから」
 里香も指をガラスの近くに持っていき、「こんにちは」と声をかけた。その犬はじっと里香を見て、純を見た。里香が指を動かすとちらりと目で追ったけれど、視線は純を見ていた。
「かわいい」
「うん」

「ポメラニアンをお探しですか?」はっきりしたよく通る声、目の横がきらきらするメイク、細い体型、アイドルみたいな店員がいつのまにか隣に立っていた。答えられないでいるところをすかさず「だっこしてみます?」。
「そんな、いえ・・・」両手を胸の前で振って断ろうとした里香の声はかき消された。
「いいんですか?」純はとても嬉しそうだった。
 いいの? 口だけで里香が伝えると、純は、ちょっと触ってみたくて、と言い訳した。店員がケースの中に入っていき、そのポメラニアンをひょいと片手で抱えた。椅子に座った純が受け取ると、ポメラニアンは小さく震えながらも、純の手の中に気持ちよさそうに収まった。純はもう片方の手で、犬の小さなアゴや小さな頭を撫でた。
「かわいい」
「里香ちゃんもそっと」。里香の膝の上に広げた両手の中に、小さな犬を載せた。
 里香は、温かく震えるその生き物がとても愛しく思えた。小さな体重を預けられることも愛しかった。
「かわいい」
「だよねえ」
「今、何か飼われていますか?」テレビで見るアイドルは、はかなげだったりおバカを演じているけれど、実はとても賢くて、とてもしっかりしているなと思うけれど、その店員にも、タイミングを逃さない鋭さを感じた。
「いえいえ」
「そうですか。ポメラニアンは人気ですよ。かわいですよね」
「私、犬を飼ったことがないんですけど、そんな人でも大丈夫でしょうか?」
「はい。初めて飼われるなら小型犬が良いと思いますよ」
「確かに大型犬はかっこいいけれど難しそう」
 そんな会話の間も子犬は里香の膝の上に丸まっていた。里香は、ずっとこうしていたいような気分になったところで、引き際が分からなくなっていた。純の顔を見ると、ちょっと頷いて、「いったん相談しますね」とポメラニアンをアイドル店員に預けた。子犬は店員によっぽど懐いているのか、安心したように見えた。それもまた、可愛いような、羨ましいような、申し訳ないような気持ちになった。

「どうしたの?」
 その後、口数の少なくなった里香に、純が訊ねた。里香は子犬に対するまとまらない感情を伝えてみようとした。
「犬をあんな風に抱っこさせてもらったのは初めてで、なんか小さくてあったかくて、可愛いというか、とっても可愛いというか、愛しいというか、そういう気分。でも、あの犬は店員さんに懐いていて、そういう風に懐かれるのって羨ましいし、それだけじゃなくて、そこから奪うというのも、なんというか可哀想な気持ちになって」
「里香ちゃんは・・・・・・優しいよね」
「そうじゃないよ。ただのナイーブ。世間知らずが過ぎる」
「そんなことないよ。ペットの生体販売って言うと、悪徳ブリーダーもいるし、多頭飼育崩壊するのもいるし、それを心なく出来るというような人とは違うということだよ」
「うーん」
「自分の家族の一匹を幸せにしたら、おれはいいと思うんだけども」純は自分の結論を早く言うことがある。
「それは、たしかに」
「ペットロスも苦しいと思うけど、それ以上に一緒にいる時間が幸せだと思える人は飼ったらいいんじゃないかな」
「うん」
「悪徳ブリーダーと言わる人たちの行為は残酷だと思うし、無いことにも出来ないけど、良心的な人もいるよ」純にしてはよく喋った。

 里香は仕事柄多くの人に接していて、純から見れば、難しいことをそつなくこなしているのかもしれないが、里香にしてみれば、挨拶と同じで、誰にでも出来ることだった。
 それに比べて、子供の頃実家で犬を飼っていたことは、誰にでもあることではなかった。
 里香が幼い頃、彼女の両親は離婚した。離婚には慰謝料も養育費もなく、母親は病院の事務をして家庭を支えた。経済的な余裕はなかった。母親はその状況を脱することを考えなかった。考えられなかったのだと思う。ただ、身を小さくして、時期が過ぎるのを待っていた。里香が、出来るだけ手伝いをし、欲しいものを欲しいと思わないようにしたのは、母親に迷惑をかけられないという気持ちもあったけれど、そうすれば、母親の暗い顔を見ずに済むからでもあった。子供ながらに他の子と違うことはひどく恥ずかしかった。口にしなかったけれど、なぜそんないいかげんな男と結婚したのかと、母親を責める気持ちも確かにあった。結婚が人生の義務なら、離婚の可能性があり、それならば相手は少なくとも養育費を払うような人でなければならないし、自分ひとりでも子供を育てていける十分な収入を得られるようになろうと考えた。
 同級生の親たちが、子供の教育に熱心で、裕福ではなくても、子供のやりたいことを応援するのを見ると、別世界のお話のように思えた。ゲームの中で、チームになり、冒険を楽しんでいるように見えた。それに比べると里香の家庭は、まるで、刑期を全うしようとしているかのような、日めくりカレンダーをただめくるだけのような違いがあった。
 そういう違いは今でもときどき感じ、同じ空間に、二つの世界が混じっているような気分になった。
 別の世界にいながら、もうひとつの世界の人と上手く渡りあうためには、なるべく微笑むようにして、不必要な発言はせず、身なりや所作を見苦しくない程度に整えてるようにしていた。
 同学年の友だちに合わせた洋服や話し方というのは、ほとんどしなかった。高校生のとき、誰とも仲間になろうとしない里香を、憐れむように誘ってくれる同級生がいて、里香はうまくやりすごせず、少ないお小遣いをその友だちに合わせるために使ってしまったことが悔しかった。それで得られたものは、居心地の悪さだけだった。その後、社会人になってからも、里香のことを仲間に入れてくれようとする人は現れたけれども、里香は複数人でいると、どうしても、気を遣って、彼女たちに合わせて笑い、合わせて悲しみ、合わせて怒ってみるけれど、彼女たちと同じようには、彼氏や、大学や、趣味や、仕事や、お金持ちの親族の話題はなくて、聞いているだけならまだしも、共通の思いや行動や振る舞いを求められると、応えられるものがく、申し訳なくなってくるのだった。里香には彼氏もいないし大学にも行っていないしこれといった趣味もなくカッコいい仕事をしているのでもなく、お金持ちの親族もいなかった。仕事以外の人の集まりは、だから、里香のいる場所ではなかった。たとえば何か趣味があれば良い友だちが出来そうにも思えたけれど、特別そういうものもなかった。週末に図書館で本を借りて読むくらいで、半分くらいは小説で、半分くらいは実用書だった。
 里香は世の中に自分のような人が他にもいるだろうとは思うけれど、そういう人と出会って仲良く出来る気はしなかった。その人を憐れんで見下してしまうのか、その人が仕事で成功するとか、結婚してお金持ちになることを素直に祝福出来るのか、正直なところ、自信がなかった。
 これまで付き合った男性は二人いた。一人は二つ年上の優しそうな人で、里香は正直に生い立ちの劣等感を話したところ、ずいぶん熱心に頷いて聞いてくれたが、その後、里香が仕事で階級が多少なりとも上がったことを喜んで話したら、良い顔をしなかった。それどころか、少し憤っていた。その階級制度は、従業員を少ないご褒美でつなぎとめるだけのもので奴隷制度みたいだとか、本当の評価とは正しい努力に与えられるべきで、正しい努力とは、良い教育を受けたものが、先人たちの道をつなぐことで、根気と集中力が必要で、君にはとうてい分かるまいと言った。里香は、あっけに取られたけれど、少し経ってみるとその苛立ちが理解出来る気がした。
 もう一人は、十歳年上の既婚者だった。いずれ終わる関係だとは思うと安心して付き合えた。結婚したいなどとは思わなかった。そういう人が気まぐれに年下の女性と付き合いたいと思う、その気持ちを理解出来たし、里香にとっても、その距離感がちょうどよかった。けれども、もちろん、その関係は、ある日 きれいに終わった。一抹の寂しさはあったけれど、仕方ないことだと思えた。

 同学年の純といることは、友だちを作るようなことだった。大学時代や趣味や仕事やお金持ちの親族のことを聞くのではなく、ただ今目の前にあることを、なんとなく話して過ごした。そういう関係を、求めていたのかもしれない、と里香自身も思うようになった。犬の話のように、育った家の経済状況が分かったときに、憐れまれることもないし、見下されることもない。普通に接するとはこういうことなのかもしれない。

(続く)ここまで読んでくださってありがとうございます。次回で終わりの予定です。

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