こういうのよ。

こんばんは。コです。

 なんと、現在80名の方にフォローしていただいてます!あっという間。まだ自己紹介しただけですがこれから発信を本格的にやっていきます。改めましてよろしくお願いします。

 4つほど下書きを残していますが、これを言わせて欲しい。

 本日、とある小学校の研究会へ。全国的にも特殊な取り組みをしている学校で、全国各地から訪問者が来るような学校だった。事前学習もゼミで行ない、楽しみに学校へ。

 そこに広がっていたのは、信じられない光景だった。
 結論から言えば、新しい感覚すぎてワクワクが止まらなかった。

 サッカーのシュート集を見る児童と料理動画を見る児童と星座調べをしている児童が1つの教室で共存している光景。広いスペースで寝そべりながら時刻の勉強をする二年生、バスケもシュートをタブレットで取り合う児童。知っている学校の光景ではなかった。特にバスケは最初に見たときに授業ではなくただ遊んでる時間だと思ってしまった。
 この学校は、自分で興味のあることを探究する時間や単元を自分のペースで進める時間、児童が司会をする自習の時間が設けられている。自分の成し遂げたいことに向かって計画を立てて行う。
 見ていて最も印象的だったのは、学びの場があまりにも個人の空間すぎたこと。個人で取り組んでいる内容があまりにもバラバラだった。なんでもいいんだ、と素直に感じたが、皆に共通していたのは真剣さが段違いだったこと。スキなことに全力で挑戦できる時間は、子どもにとって貴重で、自分らしさを実感できる時間になっていると分かった。「進化した学びの形」を見ることができた。
 ただ、これらを考える上で、
①自由かつ主体的な学びと「遊び」の境界線をどう考えるか
②児童それぞれの目指す所を、支援者として教師がどう理解するか
③個人の学びを一過性のものにせずにつなげていくにはどうするか
この3つは教師・児童生徒目の両方の目線から分析する必要があるなと。

ここからは、今日一日の中で印象的だった言葉を2つ紹介。

①目的に向かって活動する際のカタチを考えよう。
(カタチ=手立て)
児童が単元をマイペースに進めていく姿を見たが、この時間は、単元への理解度によって進度が違うことや時間のかけ方が違うことが特徴である。自ら学んでいる感覚を持ちやすくなると感じていたが、勉強に向かうことが苦手な子どもはどうなるかは疑問だった。講師や教員陣と関わる中で、①の言葉を受けたが、いま課題に取り組むことがいかに大切なのか、学びの目的は何かを自覚することが必要だと感じた。目的を分かった上で自分に合った進め方に出会うことのできるというカタチや、どのようなことをやって何を以て終わり/できたとするか、教師目線で考える必要があるだろう。例えば比較を使った学習活動ならば、「何を知りたいから比較するのか」と「どのように比較するか」をセットで、子ども自身が大切だと考えることのできる環境が必要である。

②「やりやすい」をどう捉えるか。
小学校の子どもたちは、当たり前のようにタブレットを使いこなしていた。scratchを操作する子どもや器用に文字を書く子ども。活用技術は子ども達の方が圧倒的に上であり、ここでの「やりやすい」という言葉も実際の子どもの声である。教師や私たちにとっては経験のない方法を行なっているわけで、児童自身の使用感覚を探るための広い意味の「子ども理解」が必要だと感じた。ノートがタブレットに取って代わられつつある現代に於いて、「文字を書くこと」「履歴に残しておくこと」「デバイスに書き留めておく」など子どもが必要と感じ、思ったことを素直にアウトプットできるカタチを理解することが大切だと感じた。

正直、上記の内容は断片的すぎてまとまってないように見えるし、これ以外にも収穫が大量にあった。経験のない学びを見るにあたって、主体が子どもであっても、「教師としてどう関わるか」をどうしても考えてしまう癖があった。しかし、今日の学びを通して、この小学校がやっている実践は子どもを信じた学びであると気付いた。多様な学び方を存在させることが重要であると感じたため、ここまで「かたち」を漢字ではなく「カタチ」と表記した。紹介しきれないことが悔やまれるが、自分の中で整理し、これからの教職の学びに活かしていく。

まとめ
・子どもを信じる。信じた先にあるのは子どもの描く進化した自分。
・子どもが主体。教師は聞きたいことがあるときに聞ける安心の存在であるだけでよい。ただ、子どもの学んだ履歴は追う
・目的・達成のためのカタチ(手立て)・目指す姿を意識。

長ーーいヒトリゴトでした。また、お時間があるとき聞いてください。