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鵺に乗って

お化け

私は子どものころ、体が弱くてすぐ熱を出す子でした。最初のかかりつけ医・O先生の息子先生に昼間は元気でも夜になると熱を出すことからお化けという有り難くないあだ名を頂戴するほどでした。

どこかへ出かければ、帰ってくると必ず熱を出していました。息子先生にお化けと言われるのも仕方ない子でした。

唯一出かけて熱を出さなかったのは、母方の菩提寺ぼだいじへお墓参りに行った帰りに近くうなぎ屋さんでうなぎを食べた時です。
そのため、母方の祖母から
「うなぎがお前の体を丈夫にしてくれる。」
とお墓参りへ行くたびに言われ続けて、うなぎ好きになってしまいました。


高熱が出た

前置きが 長くなってしましました。
すぐ熱を出す体質の方は 経験があると思いますが、季節の変わり目や寒い季節は 普段にも増して 熱を出しやすくなります。

あれは私が5歳の12月。
中旬ごろから寒い日が続いたためか、お約束の発熱です。
小児喘息もあったので、咳も酷くて 息苦しさも増していきました。

クリスマス寒波とともに体温も上がり40℃を超えてしまします。

この時ばかりは、母も祖母も大層心配して、かかりつけ医のO先生に往診に頼むとすぐに駆け付けてくれて、それまでとは違う注射を打ってくれたそうです。

O先生は。それから1日に何度も往診してくれたそうです。
高熱が出て、2日目の夕方、O先生は、母に「今晩が山だ。」といって帰ったそうです。

そして、その晩のことです。

ぬえに乗る

高熱に加えて咳き込むので体力が消耗して、食事もとれず、水も戻してしまったそうです。母も祖母も駄目かもと思ったそうです。

「七歳までは神のうち」という言葉がああるように、医療が発達していなかった時代、幼い子供の死亡率は高く、7歳までに亡くなる子供は少なくなかったのです。

年間の1,000出生当たりの生後1年未満の死亡数を乳児死亡率といいます。2010年の統計では2.4と世界でもトップクラスを誇る日本ですが、1965年の統計ではやっと20を割ったという時代です。

私はというと息が苦しく、はぁはぁとか細い呼吸だったのを覚えています。

当時、私たち家族は築何年かもわからぬような古屋に住んでおり、天井は粗末な板張りで、楕円の節目が目立っていました。

暖房も火鉢のみ。やかんの湯気がもくもくと立ち上って、混濁した意識も手伝って、目の前が霞んでいます

霞の向こうに見える天井の節目から得体の知れぬ動物が現れて、その姿は次第に大きくなっていきます。とても怖い形相をした化け物。そう幼いながらもこの動物はこの世のものではないとわかりました。化け物は、猿の顔をした虎。そのときはそんな印象でした。その化け物の名前を妖怪図鑑でぬえと知ったのは、小学校高学年のころの話です。

ここからは化け物をぬえと呼ばせてもらいます。

間近に迫ったぬえは、背中に乗れと言います。
言葉ではなく、有無をも言わさぬ感じで頭の中に響きました。
私はぬえの頭の中に響くように「はい。」返事をしました。

するといつの間にか、ぬえの背中に乗っています。
天井をすり抜けたのでしょうか、空を飛んでいます。下に見えるのは
布団で寝ている自分です。屋根はどこにいったのだろう、と思ったのを覚えています。

実際は怖くて仕方ありませんでした。猛獣の化け物に乗っているのです。
怖くない方がおかしいですよね。しかし、しっかりつかまっている訳でもないのに落ちないのが不思議でした。


深山幽谷しんざんゆうこくを通って

雲の上を走っていると表現すればよいのでしょうか。
ぬえに乗っている怖さが少し薄れたころ、周りの景色を見渡すとゴツゴツとした大きな岩山がたくさんあります。岩山の間をぬえはすり抜けるように駆けていきます。

のちに中国絵画を見て、ほとんど人の踏み入れたことのない奥深い自然の地。このとき通った景色を深山幽谷しんざんゆうこくということを知りました。

2017年12月公開の『DESTINY デスティニー鎌倉ものがたり』で堺雅人さん演じる先生こと一色正和が列車に乗って黄泉よみの国へ行く途中の景色は。正にこの景色だと感じました。

深山幽谷しんざんゆうこくを抜けると川が見えてきます。河原は、石だらけで、私と同じ歳くらいの子どもが石を積んでいます。上手く積めずに泣き出す子もいます。私も不器用なので、もらい泣きしました。

この風景も、後に親に先だって死んだ子供が苦を受けると信じられている冥土めいど三途さんずの川のほとりの河原であるさいの河原に似ていると思いました。

さいの河原の説話は、早世した子供が親を慕って小石を積んで塔を作ろうとすると、鬼が崩してしまう。そこに地蔵菩薩じぞうぼさつが現れて子供を抱き上げて救うというお話です。私が当時見た風景では、鬼も地蔵菩薩じぞうぼさつも出てきませんでした。

また、2016年に宮崎を旅した時に訪ねた高千穂たかちほ天安河原あまのやすかわらは、あぁあの時の風景だと思わずにはいられませんでした。

そうして、着いたのは江戸時代の宿場のような街でした。


食べてはいけない

祖母は時代劇が好きで、テレビで時代劇が放送されるといつも一緒に観ていました。その当時は、土曜の20時から放送されていた「素浪人すろうにん 月影兵庫つきかげひょうご」を観ていました。ぬえが地上に降りたのは、月影兵庫や焼津の半次が出てきそうな街並みでした。

ぬえの背中から降ろされると、ぬえはどこかへ消えてしまいました。街は活気というものがなく、歩く人もまばらで暗くて嫌だなというと思ったのを覚えています。

ひとりぼっちになって、家へ帰りたいと泣き出しそうになっていると、頭に手ぬぐいをかぶった割烹着かっぽうぎ姿のおばさんに声をかけられました。

おばさんは「坊ちゃん、ひとりかい。お腹減ってるだろう。こっちへおいで。」と、手招きをしています。そういえば、ここ数日何も食べていないとに気づきました。ついていってよいものかと、不安もありましたが、おばさんについていくことにしました。

家の中に案内されると、畳敷きの大きな部屋で、これも時代劇で観た箱膳はこぜんが真ん中に出されています。お膳の上には、玉子焼きに焼き鮭など、その頃好きだったものが並んでいます。ご飯は炊き立てて、湯気が立っていて、美味しそうです。

箸を手に取って、さあ食べようとした時のことです。
黒い衣を着たお坊さんがどこからとも現れて「食べてはいけない。こっちへ来なさい。」と有無をも言わさず、家から連れ出されました。

6人のお坊さん

お坊さんは街を出て、森の中へ入っていきました。私はお坊さんとは手をつないではいないのですが、まるで手をつないでいるように一緒に歩いていくのです。お坊さんは気遣うように私の方を時々見ます。その顔は丸顔で優しい目をしていたのを覚えています。

目の前のご飯が食べられなかったこともあり、ふらふらになりながらどれほど歩いたでしょうか、一面に草がはえた広場のようなところへ出ました。

私は疲れと空腹で、その場にしゃがみ込んでしました。するとどこから現れたのか、お坊さんが増えています。朦朧もうろうとした意識で数えると6人のお坊さんがいました。背の高さは違うものの同じ顔をして杖(錫杖しゃくじょう)を持っています。

お坊さんたちは、私を取り囲むようにしてお経みたいなものを唱えています。我が家は浄土真宗本願寺派じょうどしんしゅうほんがんじはで、母の実家は真言宗豊山派しんごんしゅうぶざんはで、それなりの仏事に出ましたが、今でも聞いたことがないお経でした。

お経の声は心地よく、私はいつの間にか眠ってしましました。


此岸へ戻る

目を覚ますと、最初に出逢ったお坊さんだけが側にしました。
お坊さんは、優しい眼差しで私に語り掛けます。語り掛けるといっても言葉を話すのではなく、頭の中に響いて訴えかけるという感じです。

その時は、子どもの私でもわかるように易しく話してくれたのですが、一字一句は覚えていないので、今の私の言葉で書かせてもらいます。

ここは死後の世界だ。まだお前が来る時ではない。まだお前には生きてやるべきことがある。さっき、お前をあちらへ返す呪法じゅほうを施した。もうこれであちらへ返る準備が出来た。こちらでのことは忘れるように、ひとつの場面だけを記憶に残す。お前はまだ幼いから花畑でよいだろう。

お坊さんの話が終わると同時に、私は色とりどりの花が咲き乱れるお花畑の中にいました。お坊さんはいなくなって、代わりにぬえが座っています。「乗れ」と、やはり、頭の中に響きます。
来た時と同じようにぬえの背中に乗りますが、来た時とは違って一瞬で家の上空に着きました。

下には布団で寝ている私がいます。その私に吸い込まれるように重なりました。


帰還その後

空が白み始める頃、私は目を覚ましたようです。
ぼんやりと目を開けると父、母と祖母が「良かった。良かった。」とすすり泣く声が聞こえます。長い夢を見ていた感じですが、4時間ほどの出来事でした。

夜明け前にも関わらず、O先生が心配して来てくれたそうです。
先生は「ペニシリンが使えたからこの子は助かった。」といって、帰られたそうです。

ペニシリンは命を救う薬でしたが、とんでもなく高価な薬だったそうです。抗生物質の歴史を調べるとペニシリンを普通の人が使えるようになったのは1960年ころからだそうです。O先生のおっしゃた意味はそういうことでした。

O先生には日頃からお世話になっていましたが、この時はいつにも増して親身になって治療をしてくださいました。年が明けて、体調の良い日にお礼に伺おうとするとO先生は病に倒れてしまったそうです。O先生は倒れる前に「あの子が助かって本当に良かった。」とおっしゃっていたと息子先生に聞きました。

O先生の後日譚
長らく闘病生活を送ってO先生が亡くなった時は涙が止まりませんでした。精一杯の感謝のしるしとして、般若心経を写経して弔問に伺いました。般若心経は、O先生の棺の中に納めてくれたそうです。


ガイドによる考察

この体験以来、頭の中に声が聞こえたり、映像が浮かぶようになりました。私の知らないことを教えてくれたり、疑問に思うことに答えてくれたりします。しかし、言葉ではないので、自分の解釈が必要なので注意が必要です。上手く解釈できれば有効ですが、そうでないと困った事態に陥ります。

スピリチュアル系の本とかを読むとこのようなものをガイドとか守護霊、守護神というようですが、ここでは便宜的べんぎてきにガイドと呼びます。

後日、ガイドに聞いたところでは、ここまでの体験をある程度覚えていることは稀だそうです。こちらに戻った時はお花畑へ行ったとか、自分の信心している神仏に逢ったとかだけになるようです。このように聞くとお坊さんが最後に言った言葉と符合します。だから私の記憶が残っているのは、何かの手違いで消し忘れた可能性が高いのでしょう。

まず、ぬえですが、ほどんど例がないそうです。普通は四神(青龍せいりょう白虎びゃっこ玄武げんぶ朱雀しゅじゃく、などの神獣が送り迎えをすることが多いそうです。

ご飯を食べさせようとしたおばさんは、黄泉醜女よもつしこめが化けた姿だろうということです。日本神話に出てくる伊邪那美命いざなみのみことが自分との約束を破って逃げ出した伊邪那岐命いざなぎのみことを捕まえるために追わせたのが黄泉醜女よもつしこめです。

ちなみに、ご存知だと思いますが、伊邪那岐命いざなぎのみことは日本の最高神と言われる天照大御神おまてらすおおみかみの父神です。

江戸時代のような街並みは、テレビ時代劇で慣れ親しんでいるので手っ取り早い異界で、黄泉醜女よもつしこめが作り出した幻想成果だろうということです。

お坊さんが「ご飯を食べてはいけない」といったのは、あの世ものを食べるとこの世に戻れなくなるからです。日本神話の黄泉の国の物語では、伊邪那美命いざなみのみこと黄泉戸喫よもつへぐいをしたため帰れないと夫・伊邪那岐命いざなぎのみことに語って います。

黄泉戸喫よもつへぐいから逃げるのは、至難の業で、よく見つからずに家から抜け出せ、逃げ通せたといわれました。

そして、お坊さんは、顔つき、6人になったことなどから地蔵菩薩じぞうぼさつの化身ではないか、といっていました。「最初から最後まで面倒をみてくれたお坊さんは、なに地蔵でしょか?」と聞くと、「わからない。」とのことでした。

お坊さんが「まだお前には生きてやるべきことがある。」と言った「やるべきこと」は、何でしょう?と聞くと「それは自分で考え、見つけることだ」といわれました。

中学になって、進路のことを考えて、O先生のように医者になろうと思いましたが、成績が伴わずに諦めました。今は柔道整復師じゅうどうせいふくしの国家資格で整体師せいたいしをしています。とりあえず、医療に携わって、患者さんに向き合っています。

何度もこの時の夢を見て、記憶が未だに残っています。これは「生きてやるべきことを」を未だに見つけることが出来ない自分への戒めと感じています。だから残っている記憶とガイドに質問しながら書き残すことにしました。

そのような理由で、ご覧の皆様にとって余分なガイドにより考察の章をを設けました。私にとっての事実を書いていますが、前述しましたように、私の解釈の間違いがあると思います。その点は、この場を借りてお詫び申し上げます。

貴重な時間を割いて、お読みくださいまして、ありがとうございました。

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