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余韻は、「ひたる」ものから「とじ込める」ものへ

素敵なものを見たあとは、余韻休暇をとっていた。

大好きな人のコンサートにいったら、会場から持ち帰ったふわふわした気持ちにずっとひたっていたかった。だから、翌日はできるなら仕事を入れない。テレビや音楽もオフ。本も読まない。外から余分な刺激を入れないことが、好きを味わい尽くすためには必要だった。


「余韻にひたることってないの?」と尋ねたことがある。相手は、全力応援しているアーティスト。まだぎりぎり直接会話ができる距離。

彼は言った。「俺ね、帰り道ごはん食べてるときとか、電車とかライブ中のこととか考えてすごい楽しいの。で、もっとこんな曲あったらいいなぁとかって考えながら家に帰って、そのまま曲をつくる」

衝撃だった。楽しい気持ちを持ち帰って、そのまま次の曲に落とし込む。そんな考え方があったのか。

彼がしている曲作りは、わたしがしている文章を書くことに近いアウトプットだと思っている。時間をかけてつくって、パッケージとして完成した時点で表に出すあたりはよく似ている。

これまでは、目の前の作品に100%集中する仕事の進め方しか考えていなかった。プライベートから仕事モードに入れ替えるには段差があって、えいっと切り替えが必要なものだと信じて疑わなかった。切り替えなんてしなくても、プライベートの延長線長に仕事もおいて、ポジティブな気持ちを手掛ける仕事のなかに一緒にとじ込めてもいいんだなぁ。

これまでさせていただいた仕事も、この文章はあのカフェで雪がちらつく中でココア飲みながら書いたなとか、旅先のホテルで見慣れない街の夜の景色を眺めながら書いたなとか、それぞれに特別な印象が付け加えられているのは作り手だけの特権なのかもしれない。

それなら、ライブに行ったあとすぐに文章を書いて、その気持ちを文章のなかに閉じ込めてしまったら、その文章と一緒にきらきらした記憶を残しておける気がする。

何より、仕事はいい気分でするのがいいに決まっている。ある方が、いい仕事をするために仕事前には自分の気分を高めることをすると話していた。逆を考えてみても、イヤな気分で取り組んだ仕事で最高の結果が出ることは考えにくい。きっと理にかなっているんだろう。

いい気分で、いい仕事をする。そこにひっそりと、楽しかった記憶もとじ込めてしまう。素敵なものを受け取って、そのときの気分を密かに読み手の人にもお裾分けできるかもしれない。なんだか素敵な気がしない?

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