見出し画像

「子どもの声は騒音ではない」は言いすぎ

 今日も元気に地域で暮らしている幼稚園児が登園途中に「チンポ野郎!」と勢いよく叫んでいるのを聞いて「子どもの声は騒音ではない」は無理があると思った。

①国の明るい未来を担っていく子どもの出す生活音を悪意にとらず受忍することは全市民的義務である。 

公共の場においてそのような場面に遭遇した場合は、当然自分もこの規範を守っていゆきたい。だがこれは典型的なNIMBYで

②子どもが恒常的に集まる幼稚園や保育園の性質上、近くに住んでいる市民は他の市民と比べてこの「全市民的義務」を守ることになる頻度が高い。彼らは客観的に大きな負担を引き受けており、負担の不公平性がある。

そこで彼が「毎日子どもの声に寛容に接している自分は、実はお金が取れるくらい立派な行いをしているのでは?」と思いついてしまっても別に非難できない。実際に払われるかどうかは別として、じつにそのくらい感謝されるべきおこないだからだ。

子供の騒音に対するカウンター的な権利の問題というのは、結局のところ、お金の問題に帰着する(子供の活動を差し止めることもできるが、将来性がない)。

 しかしそうやって子供が出す声に耐えてくださっている人たちに対して金銭的な補償をすることはできない。なぜならこれを金銭の問題にしてしまうと、市民的義務や道徳といったものが腐敗してしまう懸念があるし、コストも高くつく(そういうことを本で読んだ)。

『経済的観点からすると、市民としての美徳や公共心といった社会規範はとてもお買い得だ。社会規範によって促される有益な行動をほかの方法で買おうとすれば、非常に高くつく。コミュニティーに核廃棄物を受け入れてもらうために金銭インセンティブに頼らざるをえないとすれば、住民の持つ市民としての義務感を当てにできる場合とくらべ、かなり多くのお金を払わなくてはならないはずだ。(略)お金の力だけに頼って住民に核廃棄物処理場を受け入れてもらおうとすれば、高くつくばかりではない。腐敗をまねくことにもなるのだ』(「それをお金で買いますか」マイケル・サンデル著 鬼澤忍 訳 ハヤカワ文庫 174)

 毎日子供の声を聞き流してくれる素晴らしい行為にお金で報いると、お金だけが目的で公共心の欠片もないヤバい奴が幼稚園のすぐ近くに住むかもしれない。心穏やかではないだろう。

・解決法
そんなものはない。
俺は①を守る。②を守っている奴らも頑張れ。お前は偉いぞ。市民的感謝に値する。すべてこのままでいい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?