あゝ、いじめ問題

いじめ関連の話題が最近やたらと目に入る。

小山田氏なるオリンピックの音楽担当の人間の過去のいじめが明らかになったというもので、大バッシングを受けているらしい。なるほど、当時はこんな形でしっぺ返しが来るとは思ってもみなかっただろう。蒔いた種だ。しっかり刈り取ってもらわねばなるまい。

さて、その話を聞いていじめという問題についてnoteに書こうと思い立った。というのもこれは非常に繊細な問題というか、難しいものだと私は思っているからだ。これはいじめをする人間を擁護する記事ではない。むしろ私もいじめにあったことはある。だが同時に、いじめに加担していたこともある。だから、色々と自分の過去の感情が揺さぶられもするのだ。それを整理するのもかねて、noteにまとめる。

正直なところ、私がどんないじめを受けていたか、どんないじめに加担していたかということを事細かに述べるつもりはない。被害者として、だと加害者のやったことを誇張して言いそうだし、加害者としてだと自分の事をかなりナチュラルに表現するかもしれないからだ。記憶というのは都合よく蘇ると思っている。とはいえ、整理だ。書いていく。

被害者として、加害者として

被害者としては、消しゴムをぶん投げられたり、容姿のことをごちゃごちゃ言われたりという具合だ。これは中高6年、大なり小なり続いた。小学校の頃から、「何かあったら遠慮せずに言え」と口酸っぱく言われていた母親の進言に従ってやられていたことを言うと、母親は「加害者に改善が見られないならうちの子を学校に行かさない」と学校側に迫り、教師勢は加害者を抑え込んだ。母親は親の仕事の関係で転校を幾度となく経験しており、被害者になるとまでは言わずとも白い目で見られる事の辛さを理解していた。それゆえの防衛策だろう。親SUGEEという話だ。

加害者としては、高校一年の時にクラスの子をすごい悪く言ってた。その子は突然誰かをひっぱたくタイプのよくわからない人で周りから嫌われていた。それで周りの人が口で攻撃するようになり、私も便乗したというものだ。ただ、どこかの誰かがやっているらしい「謝りたい」みたいなことは私は一切思ったことがない。私はその人が突拍子もなくぶん殴ってくるのが死ぬほど嫌だったからだ。「てめえが謝れ」くらいに思っている。

あと高校二年生の時に、「臭い」という理由でいじめられてる、正確に言えば露骨に避けられている人がいた。私は限りなく平等に接しようとしていたつもりで、10年ほど前に修学旅行で東京に行った際にはその人が自由行動の途中でいなくなるという大エラーをかまし班のみんなから猛烈に陰口をたたかれた時も、「迷うのは仕方ない、計画が悪い」みたいなことを言ってかばった。だが、マジで臭かった。しかも、多汗な体質だったとその人は体操服を洗わずに着ていることもあった。もし洗っているのにあの臭いなら体操服を何枚も持つなどしたほうがいいレベルで臭かった。

あと弟も、「なんか嫌い」という理由で一時期めちゃくちゃいじめてしまっていた記憶がある。これは家庭内のことで、詳細なことは思い出せないが・・・。

ただ、書いてみて思ったが、被害者としても加害者としてもやったことやられたこと、文章にすると学校生活においては「あー、よくある」程度のことなのかもしれない。これぐらいだと。多分、太っている人は一度は「デブが」みたいなことを言われた事があると察するし、ごつい人は「ゴリラ」って言われたことがある気がするし、私みたいな細い人間は「骸骨」とか「ゴボウ」とか言われたことがあるのではないだろうか。え?ない?

ただ、この「程度」の問題というのは非常に厄介だと私は思っている。

「裁判でもすれば」←まあ、そうなんだけど・・・

以前、「正しさ」ということについて書いた記事があるから、ここで紹介しておく。フォロワーさんとかから割と評判がよかった記事だ。

https://note.com/efuchan3676/n/nba1999952db4

さて、メンタリストのDaiGoさんが7月17日のツイートでこの件についてだろうが、「謝ればいいってもんじゃないと思うなら裁判でもすればいいだけの話」とツイートし、引用リツイートでお怒りのコメントをたくさんもらっている(もともと、古市憲寿氏のツイートに反応したもの)。

私は実を言えばこのDaiGoさんの主張は正しいと思っている。ただ、感情を抜きにして考えた場合、だ。上にあげた記事では、私は正しさを「感情」が強く関係するものと定義した。これはいじめにも無関係ではないと思っている。

例えば、上で述べた私の被害者・加害者エピソードも、もっとひどいいじめをやった、された人からすると「この程度」と思うかもしれない。だが、人によってはもっと些細と思える事でも「いじめだ」と感じるかもしれない。これに関しては、答えがないのだ。どこからがいじめでどこからがいじめでないかということを定義するのは、感じ方ということになる。あるいはもっと踏み込めばということになってくる。いや、法が定義するとなると今度はいじめではなくて事件になるか・・・。

例えば中学時代、私の学校では「肩パン」というのが流行していた。じゃんけんで負けたら肩をぶん殴られるという意味不明の荒んだゲームなのだが、これで肩にすさまじい内出血を作っている子がいた。私からしたらもう暴力に次ぐ暴力なのだが、その子はケロっとしていてむしろそのゲームを楽しんでいた。

また高校時代には、「歯糞」と呼ばれている子がいた。色々な悪口を聞いたことがあるが「歯糞」はあまり聞かない。めちゃくちゃにディスられていたし、なんなら先生も若干それに乗っかっているという絵図だったが、彼は全くそのことを気にしていなかった。むしろ、そうやってディスってくるやつらと仲良しだった。これは私からすればもう「大いじめ」だったのだが。むしろ、ディスるやつらのセンスがありすぎて私は大笑いしていた。

いじめられる側というのは基本的に「弱い人」だ。厳密にいうと「その集団において一番弱い人」だろうか。だから脅しに屈するし、どうしたら屈するかを加害者もある程度抑えていると思う。だから被害者は言いたくても言えないということが多いと察する。言うべき相手がどこなのか、誰なのかさえわからない、そもそも存在しないと思っている人だっているはずだ。こういう言葉にも行動にもならない感情を全部踏み倒して正論をいえば「裁判起こせばいいだけ」になる。そうすれば確かに賠償金の話になるかもしれないし、事件になるかもしれないし、解決に向かうかもしれない。が、被害者が苦しんでいるのはそこではないんだろうと思う。「正しい」が「正しくない」のはこういうところに出てしまう。

「無知」という難敵の存在

そんなことがわかっていればいじめは起こらない。「集団における最下位の人間がいじめられる」ということでいじめが起こるなら、いじめられている誰かが逃げることで順位の変動が起こり、別の人間がいじめられるようになるかもしれない。ただ私の知りうる限り最適のいじめ対策は「逃亡」だ。その場をできるだけ早く去ることだ。

それが簡単じゃないから難しいんだよ・・・

ただいじめに限らず、「無知」というのは何かしらの問題にぶつかる上でなかなかの難敵であると私は思っている。めちゃくちゃざっくりいうと、「逃げてもいいという事を知らない」ということだ。例えば、上司からひどいパワハラを受けている人がいるとする。それは、誰が見ても度を越していて訴えれば勝てるほどひどいものだとする。しかし、パワハラを受けている側がそういう攻撃は「悪い事だ」ということ、訴えたら勝てるということ、訴えるべき場所を知らない。学校とかだと、行くのが当たり前というのが現在の風潮だろう。だから、行かなくても大丈夫という事を知らない人は何割かはいるのではないだろうか。

いじめがあるから学校なんか行かなくていい!というのはそれはそれで極端なのですが

例えば、日常的に虐待を受けている人がいたとする。しかし、家庭という閉鎖的な空間においては、被害者はそれが「普通」であり、本来なら虐待なんてものはあってはならないことだということを知らなかったとする。大人になってから「あれは虐待っていうのか」と、自身の経験を振り返る。

ワクチンの事はいじめとは違うが「知識」の有無が大きく関係している。それがあるかないかで、デマを見極められるかが大きく変わってくるだろう。

センシティブな話なので予防線と言えそうなことをたくさんちりばめておこうと思うが、無知であることが悪ということではない。だから、「難敵」と表現した。例えば子供であれば法律がどうとか虐待がどうとかそんなことは知る由もない。抵抗できない。親が猛抗議するだけのパワーを持っていても、子供は親の底力を知らないかもしれない。そういった手段を勉強する環境にないかもしれない。これもまた家庭の事情や個人差があるから、一概にこうすればいい、とは言えないのだ。

加害者側を許す寛容さを持てればいいというのはきれいごとにすぎない。そんな理屈が通用するならいくつかの紛争戦争は無くなっているかもしれない。そこに「正しさでどうにかならないもの」があるから戦いがやまないのだ。それを言ったら今度は「加害者側の正義」みたいな話まで入ってきそうで、こうなると正当化合戦だ。もう泥沼になる。

そしてきっと、いじめを今実際受けている人にこの文章は届かない。
だから例えここでどんなにエールを送っても意味がない。私がどれだけ「逃げろ」と言っても意味がない。実際にそれができるのは、親だ。大人なら、自分だ。もちろん大人でもガンガン助けを求めていっていいが。

いつもの言葉で締める

私はいつも、

目の前にいる人を大切にする

ことが大事だと言っている。ネットで拡散することで問題提起ができると思うならやったらいいと思う。実際私がこうやって文章を書いて、どこの誰に届くかはわからないことをべらべらとしゃべっている。

でも実際、身近に会う人の事はすごい気にしている。しんどそうだったら声をかけるし、愚痴があったら聞く。もちろん逆もまたしかりだ。そうやって、いい循環を増やすことがみんなのためになり、誰かの模範になるのではないかと思っている。

逃げろ。
とにかく、やばいと思ったら逃げろ。
「はぐれメタル」の生き方を勧める。まわりこまれても、私たちは彼らを追い続ける。だが、負けじとはぐれメタルは逃げようとする。

それでいいんだ。逃げろ!!

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