電話

赤黒い液体が壁に飛び散ったような写真が高校時代の友達から送られてきた。

「もう死にます。探さないでください」

精神にある種の問題を抱えているような友達からこんなメッセージを受け取ったものだから、私はびっくりして、2秒後には電話をかけていた。

「お前どうしたんだ!」
「ん、あ、これ?ビーフシチューこぼした。」

心配を返しなさい。曰く、コンビニで売っているビーフシチューを開封しようとしたところ、力加減を間違って壁にぶちまけたという。写真をよく見ると確かにビーフシチューのような色合いをしている。

せっかくだったので、近況を話し合ってみた。彼は相変わらずハードボイルド小説の主人公のような生活をしていた。筋トレ、統計の勉強、女、肉体労働、これ以外の事柄についてはほとんど手をつけていないようだった。能力値のグラフの形が極端におかしいため、単位の習得やら、一般的な日常生活など、バランスの良い能力が要求されるようなことを苦手としている。

その割に、異常な重さのスクワットをこなしたり、大学の学部生になった後も一日7時間程度勉強しているという。能力をうまく割り振ることさえできれば、大学生活を謳歌できるはずだが、あいにくそのような器用さは話を聞く限りない。

「単位やばい。今回は本当にやばい。」

いつもこの手の話を聞いているのだが、彼はもうすでにスリー●●●アウト、ツーストライクのような状態でありほとんど大学から追い出されかけている。大学生の上位1%に入るようなの知能と学習時間を持つような人間がこのような状況に置かれている現状は、なかなか理解に苦しむ。尖ることは、平均的な能力の上にしか成立しない。哀しいことである。

そんな彼とは、考え方がかなり異なるのに、なぜだか話が合う(まあもちろん私の知能レベルでも理解できるように話してくれているという側面がある)。ゴリゴリの統計学専攻の彼は、非論理的な物事に対して恐ろしいまでに非寛容である。

例えば、この日の電話ではふと私がした発言に対して、1+1の答えが2であることを知ることはできるが、2があるからと言ってそれがそれが1+1であるとはわからない、という話をしていた。それは、0.5*4かもしれないし、4-2かもしれない。これを応用すると、例えば「現代社会における若者の不安」について調べようとしても

「現代で若者は不安を抱えている」

ということを定量的に示すことができたとしても、それがなぜか、についてはわからないし、到底説明できるようなことではないということが言える。これには一定の説得力がある。


対して私は、科学の論理で捉えられない●●●●物事にこそ価値を置いている。そもそも扱っている内容が全く異なっている。多分、人文学(というか人類学)と科学の違いがこれを説明してくれると思う。きっと私たちは二人とも物語の可能性を心のどこかで信じているんだと思う。

彼と話していると、「ああ、勉強しなきゃな〜」と思うのと同時に、大学入学時に抱いていた問題意識を思い出す。文系に何ができるのだろうか、私には何ができるというのだろうかということだ。

電話が、高校時代の友人と自分の距離を一気に縮め、そして高校の時の自分すらもたぐりよせられ、はじめの炎がそっと燃える。タイムカプセルが開かれるが、思い出は語らない。語るのは徹尾徹頭今の話。たまにはこんな時間があってもいい。




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