「教養」嫌い

先日、本屋に行くと、「本物の教養を身につけるには」とか「教養を学ぶ意味とは」といった毒にも薬にもならないような本が積み上げられていた。この手の本の中身は、まるで生成AIにでも書かせたかのように内容が均一で、とても教養のある著者が書いたようには見えない。そんな本には興味はないので、目当ての本を探しに行く。レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』だ。

言わずと知れた古典的名著。しかし、『悲しき熱帯』はおろか、『野生の思考』も『今日のトーテミズム』も置いてはなかった。

もちろん、レヴィ=ストロースを山積みにするよりはむしろ「教養本」を置いといた方が売れるのだろう。それは完全に同意できる。ただ、そんなくだらない本を1000冊読むくらいなら、じっくりと一冊の名著に向き合った方が「教養」になるんじゃないかと、そう思っただけ。





こんなことがあったので、ちょっとだけ教養について考えてみる。この言葉自体は多義的で、そもそもが雑多な物事を表すので、その一部だけの話になることを断っておく。私はこの言葉のどこに気持ち悪さを覚えているのだろうか。一言で表すと「神がいない宗教」のようだと思う。

宗教的な教育では、理念がはっきりする。神が与えた規範を守ることのできる人を育てればいい。すると、みんな天国に行くことができ、出来が悪いと地獄に落ちる。単純明快でわかりやすい。

対して、「教養」はどうだろうか。何か究極的な目的が欠落しているように思う。もちろん、良き人間になる、とか、なんとでも言いようはあるのだが、それにしても何が良くて、何がダメなのかと言う価値判断の基準が一向にはっきりしてこない。そうなると、身につけなければならない知識に際限がなくなる。いつまで経っても、ラットレースのようにその場から動くことができない。天国にも地獄にも行けない。

すると、いつまで経っても何かが足りないような感覚に苛まされることになる。そして、そんな不安を煽ることで、言ってみれば、「あなたはまともな人間じゃないですよ」と囁きかけることによって「教養を身につける」系の本を売りつけているように思う。

これこそが、教養本に感じていた気持ち悪さだ。

じゃあお前は、具体的に何が教養だと思うんだよ、と正当な読者の皆様は思うことでしょう。誠に残念ですが、私には教養がないのでわかりません。












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