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「フットサルにハマるまで」 / 4年 #41 庄野 裕人

愛媛大学フットサル部広報部です。この度、部員によるnoteを始めました。

本日の投稿はフィールドプレイヤーからゴレイロに変わりチームを支え続けてくれた男、庄野裕人です。誰にでも優しく接してくれ、何事にも真面目に取り組み、チームのことを常に考え行動してくれる、そんな彼のフットサル人生についての投稿です。



 初めまして。愛媛大学4回生の庄野(しょうの)です。今回は4年間の大学フットサルを振り返ってその都度思ったことや感じたことについて少しお話しします。長くなってしまいましたが、読んでいただけると幸いです。よろしくお願いします。

①フットサル部に入った


 僕は1回生の6月頃にフットサル部に入部しました。高校までずっとサッカーをしていたのでサッカー部も考えていましたが、サッカー部が早朝練習ということを知ってフットサル部を選びました。

それと、高校まで大きなタイトルを取ったり、全国へ行ったことがなかったので大学で何か成し遂げたいなと頭の片隅で思っていました。フットサル部を選んだのはこんな理由からでした。

②コロナ禍

 入部当初はコロナ禍真っ最中。その影響で部活は活動停止を繰り返す日々が長く続きました。正直、部活をしている実感があまりなかったです。しかし、コロナでも大学の授業やアルバイトなどをやらないわけにはいかなかったので、自然と部活以外のことに気が向いて、当時の部活は二の次、三の次という位置付けになっていた気がします。

③ゴレイロになった

 そんな生活が続いた1回生の冬頃、僕は部活のモチベーションが著しく無くなっていました。フットサルが楽しくない、おもしろくない。練習がめんどくさい。しかし同時に、一度始めた部活を簡単に辞めたくないという気持ちもありました。何かを大きく変えないとこの先やっていける気がしない、そんな時にフィールドからゴレイロへのポジション変更を決断しました。ゴールキーパーの経験は全くのゼロでしたが、もともと興味があったこと、同期にゴレイロがいなかったこと、先輩にスーパーなゴレイロがいたこと(教えてもらえる)などいろいろ考えた上での決断でした。

④モチベーションが上がらなかった

 2回生になり、ゴレイロとして活動を続けていましたが、もちろん容易な道のりではありませんでした。コロナによる活動制限も続いていて、まだフットサルをあまり知らない上に新しく始めたゴレイロというポジション。まず、ゴレイロに慣れることに時間がかかり、その頃もまだフットサルを楽しめていなかった気がします。 また、僕はこの頃からフットサル部の事務の役職を担当させていただきました。コロナ禍で練習や試合をするには大学に許可を貰う必要があったので、試合がある度にその申請書を書いたり、部員の保険を申請したりとその仕事内容は様々でした。


 そして2回生の冬、神戸カップという全国のチームが参加する大会があったのですが、僕はモチベーションが無いことを理由に欠場しました。部活の一員として活動している以上、モチベーションを理由に欠場することは良くないとは思っていましたが、それ以上にフットサルへの熱が冷めていました。また、神戸カップは県外遠征なので大学への申請など事務の仕事が多くて、フットサルへのモチベーションが無い状態で事務作業をこなすことがこの時は苦しくて先輩に助けて貰っていました。

⑤意識改革

 しかし、ここで僕がフットサルと向き合う転機がありました。神戸カップを欠場した後に監督が電話で伝えてくださった「腐らず練習を続ければ出番は来る」というメッセージです。フットサルに限らずスポーツの世界ではプロでもアマチュアでもコンスタントに試合に出られる選手は一部で、その裏には試合に出られない選手もたくさんいる。強いチームはそんな選手たちも含めてメンバー間の競争があって質の良い練習ができている。

試合に出られずとも腐らずに練習をしていると、いつか必要とされる場面が来る。それがたとえ5分や10分と短い時間だとしても。その時に良いパフォーマンスができるように日頃から準備する。全国を目指すようなチームでは当たり前のことかもしれませんが、その意識を、メンタルを僕はこの時まで持てていませんでした。このような意識改革をした頃からフットサルに熱が入るようになりました。

⑥スタート地点 

 3回生に入るとコロナも落ち着いて通常通り練習できるようになりました。そして3回生の冬、愛媛大学はその年の愛媛県リーグで優勝したため、四国リーグ参入決定戦に出場することができました。四国4県の代表4チームの総当たりで1位になると四国リーグに昇格できる重要な試合。僕はその3試合に出場しました。今までは1つ上のスーパーな先輩ゴレイロが試合に出ていましたが、その先輩が引退した後、初めての試合でした。そのため公式戦で初めてのスタメンだった気がします(たぶん)。

結果は3試合2勝1分けで見事四国リーグ昇格を果たすことができました。個人としては満足いかないプレーも多くあった中で、得点に関与できたりプラスな面もありました。
 この試合は1年前にフットサルへの意識を改革して、腐らず練習してやっと辿り着いたゴレイロとしてのスタート地点でした。内容はともかく、勝てたこと、四国リーグ昇格という形で結果を残せたことがとても嬉しかったです。そして今までで1番フットサルが楽しいと思えた瞬間でした。


⑦最後の学生選手権

 4回生の7月に全日本学生選手権の四国大会がありました。この大会のために1年間練習してきた、全国出場のための大事な一戦。僕は後輩のゴレイロが勝って繋げてくれた準決勝に出場しました。もちろんゴレイロ人生1番の大舞台で緊張もありました。相手は過去にも負けている高知大学プログレッソ。試合は自分のミスからの失点もあって4-5で敗戦。試合が終わったときの感情は言葉では表しにくいですが、1年間練習してきたことや、チームメイトや監督、マネージャーといった支えてくれた人たちの気持ちが頭に浮かんで、それに応えられなかった自分が憎くて、うざくて、ただそれだけでした。

選手権後に大学院入試が控えていたため、僕はこの選手権で後輩たちを全国に送り出して引退することも考えていました。しかし、チームに貢献できないまま引退するのは納得できなかったので、シーズンが終わる12月までは部活をやり切ることをここで決意しました。


⑧引退

 選手権後、大学院入試のため2ヶ月ほど休部して10月頃から部活を再開しました。しかし、10月下旬の練習で僕はふとしたプレーで左肩を脱臼しました。脱臼をしたのは初めてで、大学に入ってから怪我をしたのも初めてでした。何でこの時期に…って感じですよね。

医師からはしばらく左肩を動かさないように指示を受けて見学の日々が続きました。正直もう引退だなと思ってしまいましたが、少しでもチームに貢献するべく最後までやり切ることを決めていました。地道なリハビリをしつつ、手伝えるメニューには参加しました。


 そして12月下旬に松山大学との四国学生リーグ優勝をかけたシーズン最後の試合を迎えました。結局、脱臼は完治せず僕はボールパーソンとして試合を見守りました。勝てば優勝でしたが、結果は4-4の引き分けで優勝は逃しました。最後の試合は出るどころかフットサルもまともにできない状態で終わってしまいました。僕は出ていないので試合について偉そうには話せませんが、その試合に出ていた同期や後輩を外から見ていて「フットサルってやっぱりおもろいな」、「怪我したけど最後までやり切って良かった」と心から感じました。そしてこの日で4年間の大学フットサルが終わりました。

⑨最後に

 僕の4年間の大学フットサルは望んでいたような4年間ではなかったかもしれません。しかし、良いことも悪いことも含めてすべて経験で、これが今の僕の実力だと感じています。そして何より、多くの人に支えられて、最後はフットサルというスポーツを好きになれたことが貴重な財産です。また、部活を通して1人の人間としても成長できました(たぶん)。

大学フットサルは終わりましたが、これから大学院、社会人と進んで行く中でもフットサルにチャレンジしたい、そしてもっと強くなりたいです。
 最後に4年間で関わってくださった方々にこの場をお借りして感謝いたします。フットサル部に入って良かったです。ありがとうございました。

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