傀儡謡 『イノセンス』 歌詞徹底分析
前提
この記事では『傀儡歌』の歌詞を分析します。
『傀儡謡』とは、川井憲次によって作詞・作曲された、2004年公開の劇場用アニメ『イノセンス』のテーマ曲です。
『イノセンス』は、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』というアニメの続編で、攻殻映画シリーズの2作目にあたります。
この記事は『攻殻機動隊』と『イノセンス』の両方を視聴済みの方向けに書かれているので、未視聴の場合は少し内容が分かりにくいかと思います。まずは、その2作を御覧ください。
さて、川井憲次は前作『攻殻』からの続投で『イノセンス』に参加し、その両方で歌詞を書き下ろしました。そのため、2作の歌詞には互いと呼応している箇所があります。この記事の主題は『イノセンス』ですが、その中でシリーズ全体のイメージも浮かび上がらせていきたいと思います。
問題は、その分析の根拠です。サウンドトラックのライナーノーツ等によれば、川井憲次は万葉集のような日本の古典を参考とし、「古語」を用いて作詞したとのことです。古語ならば現代語よりも映画本編を邪魔しないというメリットがありますが、それゆえに意味と文脈を理解しにくい箇所もあります。ただ、古典を参考に作詞したと言うからには、その引用元がどこかにあるはずです。ということは、引用元が見つかれば歌詞の意味も分かりやすくなるのではないでしょうか。
それが、この記事の趣旨です。万葉集から類似する箇所を抜き出し、また『古事記』等の他の資料も適宜参考にしつつ、歌詞1フレーズごとに比較していきます。すべて終わる頃には、歌詞の意味や文脈も自ずと明らかになっているでしょう。少し長くなりますが、一つお付き合いください。
※ちなみに、『傀儡謡』には全3種類のバリエーションがありますが、『新世に神集いて』というバージョンの歌詞は他の2つと重複するため、今回の分析では取り扱いません。
※また、原典には長歌や贈答歌が多いため、そうした歌は一部のみ抜粋しています。和歌を一部抜粋というのも乱暴な話ですが、そちらもご了承ください。
最後に、無茶で乱暴な断定と、古典的教養の欠如にあふれていることと存じます。先に謝っておきます。
歌詞
1:『怨恨みて散る』
3:『陽炎は黄泉に待たむと』
一日一夜に
どちらも恋の歌です。そもそも和歌には恋歌が多いものです。その文脈で「一日一夜」とえば、「一日でも会えないと寂しい」となるのが自然です。イントロ・ドンでその文脈に気付く必要があります。
上に、例を2首を挙げました。1首目は妻に宛てて会えない寂しさを詠んだものですが、2首目は不義の恋の末に引き裂かれた悲哀の歌のようです。
バト素、もとい去っていった素子に対するバトーの切ない思いに重ねられた歌詞と見てよいでしょう。より抽象的に言えば、人間の魂≒ゴーストの孤独を歌ったものとも考えられます。キムが劇中で論じていたように、人は、神からも、純粋な物体からも、動物の無意識からも遠い、孤独な自意識をかかえています。「一日一夜」にも同種の孤独を見ることができるのです。
『傀儡謡』の歌詞は、そのような孤独のモチーフからスタートします。
月は照らずとも
和歌における月は色々と使いようのあるアイテムですが、遠く離れた恋人や去っていった人を投影することが多いです。「山の向こうの月」なら地元に置いてきた恋人ですし、「去年の月」なら去年死んだ妻で、「欠けた月」なら死んだ皇子です。
上に挙げた1首は、「あなたと2人一緒なら、月が高い山に隠されて里に照らずとも構わない」というものです。歌詞においては、遠く離れていった草薙素子のイメージが投影されているように思えます。あるいは、人間の孤独が照らない月として表されているとも言えます。その点は「一日一夜」と同じです。
加えて、丸く光る月はしばしば鏡に例えられます。押井守の伝家の宝刀である「鏡像とアニマ」のモチーフがここにあるように思えます。イノセンスのタイトルクレジット映像でも、向かい合うハダリの鏡像が描かれていましたね。
さらに、天岩戸の神話でアマテラスの顔を映した「八咫鏡」も意味しているでしょう。ファンの方はご存知の通り、前作の『攻殻』では天岩戸がモチーフとして使われていました。クライマックスにて、戦車の上で裸踊りをしていた素子さんがアメノウズメ役です。
そのモチーフは、前作のテーマ曲である『謡』の歌詞にある「吾が舞へば 照る月 響むなり」という一節でも参照されています。「吾が舞へば 」という箇所から分かるように、『謡』の歌詞も天岩戸が元になっており、その要素の一つである鏡=月を継承したわけです。
ただし、「吾が舞へば 」というフレーズそのものは古事記には見つかりません。推測ですが、これは『日本書紀』の憶計王の舞の引用ではないかと思います。身分を隠した皇子が舞を踊るとともに、自らの出自を明かす場面です。
悲傷しみに鵺鳥 鳴く
「ぬえ」という鳥は、たいてい悲しい言葉とセットで使われる枕詞です。(妖怪にも「ぬえ」というのがいますが、そちらは『平家物語』等に由来する伝承であり、歌詞とはあまり関係ありません。)上記の場合、「片恋」にかかっています。これは、妻を亡くした皇子の心情を思って詠まれたもので、やはりここでもバトーと人間の孤独が投影されているのでしょう。
また、この「ぬえ」のモチーフも、先ほどと同様に前作『謡』から継承されています。『謡』の方では「夜は明け 鵺鳥鳴く」という形で使われていました。ただし、その前作の「ぬえ」の発想の元はおそらく万葉集ではなく、以下の歌のように思われます。
こちらは、『古事記』にてオオクニヌシがヌナカワヒメに求婚した際の歌です。オオクニヌシが夜中に求婚に訪ねてきたのに、ヌナカワヒメは扉を開けてくれません。あくせくしている内に夜が明け始めます。周りで鳥がうるさく鳴きはじめ、苛立ったオオクニヌシは黙れとわめきます。そんな時、ヌナカワヒメが歌を返し、結局2人は成婚に至ります。上記の歌はその場面で出てきたものです。
なぜこの歌が『謡』の鵺鳥のイメージ元だと断言するかと言うと、歌詞の他のフレーズもそこに登場するからです。歌の全体を見てみましょう。
以上のイメージを頭に入れて考えると、『謡』の「夜は明け 鵺鳥鳴く」と『傀儡謡』の「悲傷しみ鵺鳥 鳴く」で、文脈が変わっているように見えます。1作目では成婚を邪魔する鳥だったのが、2作目では悲恋に寄り添う鳥になっています。1作目は素子と人形使いの成婚、2作目はバトーの草薙素子に対する悲恋、というような構図が表現されているのかもしれません。NTRですね。そうした対比も『謡』と『傀儡謡』の面白いところです。
吾がかへり見すれど
どちらも柿本人麻呂の心情を詠んだものです。柿本人麻呂は国司として地方に赴任したことがあり、その際に妻を家に置いてきています。上の2首とも、その恋しさが詠まれているわけです。
歌詞の「かへり見」はやや唐突で面食らいますが、この和歌と同様に寂しさのニュアンスが込められていると見てよいでしょう。このように、『傀儡謡』の前半では失われたものや恋人に対する思慕・孤独のモチーフが連続して表れます。言葉を変えながら同じイメージを追いかけているのです。
花は散りぬべし
これは、妻を失った友人の心情を思って詠まれた歌です。妻が生きていた頃に一緒に見た花はもう散ってしまった、という内容です。先ほどの「かへり見」と合わせれば、文意は自ずと明らかでしょう。時の経過に伴う切なさが表現されています。ちなみに、ここで詠まれている「花」はセンダンとのことなので、桜や梅みたいにキラッキラな花より少し清楚なものをイメージすべきかもしれません。
「花」という要素は前作の『謡』には無く、『傀儡謡』から現れたモチーフです。月・神・鳥といった空のモチーフが『謡』の特徴であったとすれば、「花」はそれと対照をなすと言えます。花の色はうつろうものであり、きわめて地上的かつ、かりそめの存在です。「あの葉っぱが落ちたら私も死ぬのね」というやつです。
劇中で、神ならぬ地上的な者たちの悲哀についてキムが語っていたことを思い出せば、この「花」の文脈も理解可能です。
慰むる心は
最初の1首は死んでいく自分自身について詠んだものであり、次の1首は恋人と会えない寂しさを詠んだものです。攻殻・イノセンスの文脈において2つは同じ意味と言えるでしょう。ここでも同じ心情が言葉を変えて反復しています。
消ぬるがごとく
最初の1首は妻の死を詠んだものであり、次の1首は母をなくした娘婿の心情を詠んだものです。「消ぬ」は露・霜・雪などとセットで儚さを表す単語です。「露命」という熟語が思い出されますね。人の死に直面して、命の露のような儚さに思いをはせているわけです。
さて、ここまで7つほどフレーズをチェックしましたが、何度も申し上げている通り、死・別離・喪失という同じイメージがずっと反復されています。そして、それを「花」という地上的な、かりそめの視点から見ています。お花の中心にバトーさんの泣き顔がある様を思い浮かべましょう。そのような花と別れのイメージが『傀儡謡』の歌詞のベースとなっているということを頭に入れて、次に進んでいきます。
新世に
後の2首における新世とは遷都、つまり首都の移転を意味しており、最初の1首では「未来まで妻と一緒にいたいと思ったが、それはかなわなかった」という悲しみが詠まれています。
新しい時代の到来は吉兆であるとともに、死すべき定めの者を過去に置き去りにしていくようなニュアンスも見て取れます。
神集ひて
これは、草壁皇子の死を悼んだ歌です。アマテラスが神を集めた際に選ばれた、正統な地上の統治者である草壁皇子が死に、臣下たちは途方に暮れている、という内容です。
後ほど改めて言及しますが、この草壁皇子の死という要素は後に出てくる歌詞と呼応しており、おそらく『傀儡謡』の特に重要なイメージ元と考えられます。
また、よく似たフレーズが『古事記』にも現れます。『謡』とのリンクを考えると、最初のインスパイア元はこちらの方でしょう。
これは、天岩戸でアマテラスが隠れた際に神々が集まり方策を協議したくだりです。「新世に神集ひて」の直後に「夜は明け」という太陽神の再臨を思わせるフレーズがくることからも、天岩戸をモチーフとしていることが分かります。
歌詞全体の流れでこの「新世に神集ひて」の部分を見てみると、死・別離のモチーフから天岩戸・アマテラスのモチーフへの蝶番のような役割を果たしているように思われます。バトーさんから人形使いへバトンタッチです。
世は明け 鵺鳥 鳴く
こちらも『謡』から継承されたフレーズです。
夜明けというと現代人の我々には明るい肯定的なモチーフに思えますが、上に挙げた1首でも示された通り、和歌の世界では「恋人に会えなかった夜が明けた」というネガティブなものでもあります。
また、先ほどから繰り返してきた通り、天岩戸からアマテラスが出てきて世に光が戻った場面と、オオクニヌシの求婚がうまくいかずに朝を迎えて鵺が鳴いた場面に呼応しています。神と光の再臨、そして愛の挫折とぬえ鳥。『謡』と『傀儡謡』はこの2つの対照的なモチーフを行ったり来たりしています。バトーさんと人形使いのシャトルランです。
咲く花は
上の2首の「花」は「過ぐる」と「移ろふ」にかかっています。つまり、俗世の、かりそめの存在の儚さが詠まれているのです。これは、次のフレーズとの対比で意味を持ちます。
神に祈ひ祷む
最初の1首は、死んだ子を思う親の心情を詠んだものです。2首目は、恋人の幸福を願う恋歌です。万葉集には、他にも「うけひ」という言葉で神に願いを託す歌がいくつかあります。
歌詞の文脈において重要なのは、「神」と対比される衆生の儚さやままならなさが「咲く花」によって強調されているという点です。加えて、「花」が人格化されて、花自体が天に向かって祈っているように描かれています。現代的な暗喩にも思えますが、『新古今和歌集』にも鳥に心情を仮託した歌は多いですし、以下のような、花の気持ちを詠んだ歌もあります。
生ける世に
2首とも「今まで生きてきた中で」という程度の意味であり、歌詞読解にはさほど貢献してくれません。五・七のリズムで、その前に出てきた「咲く花」をより分かりやすく反復しているといったところでしょう。
既に気付いている方も多いかと思いますが、『傀儡謡』の歌詞は語りの主体が曖昧で、「吾」「我」と「花」が微妙に繋がったり離れたりしています。仮に、「花」がハダリを象徴していると考えるならば、歌詞の前半の「吾」がバトーの視点であり、後半の「我」がハダリの視点かとも思えます。ただ、その差異は短い歌詞の中では曖昧です。まるで、バトーがハダリに感情移入してしまったように、「かへり見」した瞬間に神々の世界を経由して花に魂が吸い込まれたかのような感覚があります。あるいは、ふと鏡を振り返ると、自分が花だったことに気付いた、というような。
我が身悲しも
『万葉集』にも「悲しも」や「愛しも」の含まれる歌は多いのですが、なかなかピンとくるものがありません。万葉集ではなく、上に挙げた『古今和歌集』からの1首がイメージ元になっているのかもしれません。
「飛んでいく鳥に対比される地上の我が身の悲しさ」という、『イノセンス』にあまりにもピッタリ当てはまる歌です。劇中でも何度も鳥が現れ、そしてそれは機械仕掛けの天使ともリンクしています。そして、監督の押井守自身も、あのカモメはひょっとして草薙素子かもしれないと言っています。「悲し」とは鳥を遠くから見るような、地上的な衆生の悲しさなのです。
夢は消ぬ
「夢」に関する歌は万葉集に無数に出てくるのですが、たいていは「夢で会えたら」とか「せめて夢に出てきてほしい」というものです。
既に「消ぬるがごとく」の部分で説明いたしましたが、「消ぬ」は露命のような儚さを表す事の多い言葉で、その意味で「花」と同様のモチーフと考えてよいでしょう。
『新古今和歌集』を見ると、以下のような歌も見られます。
あるいは、『和泉式部日記』の『手枕の袖』という有名な部分に以下のような歌も出てきます。
「夢は消ぬ」という形で使ったのは、ひょっとすると川井憲次の独創かもしれませんが、確証はありません。
怨恨みて散る
「怨み」という語彙は万葉集にはあまり見つかりません。出てくる場合も「恨まない」という意味の用例です。その一方で、古今和歌集には怨みの歌がいくつかあります。
特に1首目の「(一つの愛が終わり)怨んでも泣いても、それを言う相手はもういない。鏡に映る自らの姿以外には。」という歌は、『イノセンス』と極めて親和性が高いように思われます。去っていった愛=神を怨みながら、鏡像に向かい合って死んでいく。そのようなイメージを想起させます。
監督の押井守自身も、「怨み」はイノセンスの物語を上手く表す言葉であると考えており、曲のタイトルとなったことも頷けます。
さて、ここまでで最初のバージョンの『怨恨みて散る』の分析が終了しました。ここからは『陽炎は黄泉に待たむと』の歌詞分析となります。
陽炎は
このフレーズが『傀儡謡』で最も重要な箇所です。
「かぎろひ」は最初の1首のように大気のゆらめきの陽炎も意味しますが、2首目では「朝日」を意味しています(というように解釈されています。)つまり
「東の野には朝日が登ってゆくのが見え 振り返ると月が落ちてゆく」
という意味の歌になります。
なぜこれが重要なのでしょうか。この歌は、柿本人麻呂が軽皇子とともに狩猟に行った際に詠んだものです。そして、軽皇子とは草壁皇子の息子です。天皇となることを期待された草壁皇子が死んでしまい、柿本人麻呂がその悲しみを詠んだ、ということは「神集ひて」の箇所で説明いたしました。上に挙げた歌では、その息子の軽皇子が新たな希望として柿本人麻呂の前にいるわけです。歌の中の「かぎろひ」つまり朝日は、その軽皇子を象徴しており、振り返った時に見えた沈みゆく月は草壁皇子のことなのです。
『怨恨みて散る』の歌詞が月から始まったことも思い出されます。まさに「月日が巡る」かのようにして、『怨恨みて散る』の月と『陽炎は黄泉に待たむと』の陽炎=太陽が循環しているのです。
『謡』と『傀儡謡』では、アマテラス=太陽神たる人形使いと、それと繋がった月=鏡のモチーフに加えて、対照的な地上の花が描かれています。花は衆生の儚さ、つまり命の有限性に関わるモチーフです。そしてその有限の時間のサイクルを回しているのがまさに月日であり、それらは永続的なものであると同時に死と再生のシンボルとなっているわけです。クライマックスの3曲目は、その再生のシンボルによって始まります。
黄泉に待たむと
上記の1首は菟原処女という伝説を元にしています。その菟原処女の伝説というのは、次のようなものです。芦屋に住む美しい娘に二人の男が懸想し、娘を巡って戦い始めます。その様子を見て悲しんだ娘は、「黄泉にて待つ」と言い残して自らの命を絶ちます。片方の男が娘の夢を見て後追い自殺すると、もう片方の男も悔しがって自刃します。
万葉集の文脈において、「黄泉に待つ」とは愛しい男の死をあの世で待っている娘を指すわけです。ですが、歌詞においては、直前の「陽炎」によって異なる文脈が生じています。
『傀儡謡』の歌詞が、儚い衆生たる「花」の視点から月日に焦がれる心情を示しているということは、先ほどから説明している通りです。そしてこの箇所に至って、「黄泉で朝日を待とう」と言っているわけです。「怨恨み」の中で死にゆく衆生が、再生の朝日を黄泉の中で待ち続けているのです。
そして、「黄泉」というモチーフは、劇中ではロクス・ソルス工場の暗い通路という形でも表現されています。バトーのロクス・ソルスへの潜入は、言ってみれば暗喩的な自殺であり、あの世の草薙素子に出会うためのダイブであったわけです。菟原処女の伝説における自殺した男と同じです。バトーさんは「必死」なのです。
百夜の
どちらも、「この夜が100倍長く続いてはくれないものか」という意味です。特に1首目は、好きな人と初めて褥を共にする夜について言っています。ただし、歌詞の方の百夜は「悲しき」にかかっており、万葉集の文脈とはいささか異なります。
推測ですが、この部分は万葉集ではなく、能の演目『通小町』がベースになっているのかもしれません。『通小町』は、ある僧侶が小野小町の亡霊と出会うところから始まります。その後、小野小町の亡霊に再会した僧侶が、戒律を授けるように頼まれた時、深草少将の亡霊も現れます。
深草少将はかつて小野小町に求愛していたのですが、小野小町は彼を相手にせず、「100日続けて自分の元へ通い続ければ、愛に答えよう」という、難題を与えました。深草少将は99日休まずに通い続けたのですが、最後の100日目に死んでしまいます。能の『通小町』においては、亡霊がその過去を再現した後、仏縁を得て成仏していきます。
そのような、愛を求め続けた必死の「百夜」が、歌詞に反映されていると考えることができるのではないでしょうか。それは、人間ないし衆生全般に通じる切ない姿であり、劇中のバトーさんの姿でもあります。
悲しき
世に悲しみの種は尽きぬもので、悲しみについての和歌も無数にあります。これといって特定の引用元があるような言葉でもありませんが、2首目の「海辺に霞がたなびき、鶴の鳴き声が聞こえる悲しい夜は、故郷が思われる」という歌は、『イノセンス』の情景にもマッチしていると言えるでしょう。ここでいう「悲しさ」とはドラマチックな悲劇ではなく、切なく佇むような悲しさなのかもしれません。
常闇に
この箇所は、1曲目の「一日一夜に」と対になっていますね。月の照らない一日の暗闇と「常闇」の対比です。
「一日一夜に」の項目において、「遠くあれば 一日一夜も思はずて あるらむものと 思ほしめすな」という歌を引用し、それが中臣朝臣宅守の悲恋の歌であると説明いたしました。『万葉集』の当該部分は宅守と女性の贈答歌であり、いくつかの連続した和歌が男女の別れのやり取りとなっています。上に挙げた1首もその一部です。宅守と女性が和歌で返答し合ったように、『怨恨みて散る』と『陽炎は黄泉に待たむと』の2曲が呼応しているわけです。
さらに『謡』における天岩戸との繋がりを考えると、「常闇」にはアマテラスの隠れた際の闇という意味も込められているかもしれません。
卵の
この1首ではホトトギスの托卵の習性が詠まれています。なぜ歌詞で唐突に「卵」が出てきたのかこれで分かりますね。そう、「鳥」の要素と呼応させるためです。「ぬえ」が歌詞に含まれていることからも、そして『イノセンス』劇中で何度も鳥が出てくることからも分かる通り、これはおそらく「鳥の卵」なのです。
『傀儡謡』の歌詞が天上に憧れる花の視点を持っていることを、ここまで繰り返し述べてきました。ここでは、その怨恨みの中で散っていく「花」が「鳥の卵」への転生を願っているのです。とても切ない歌詞です。
これは、押井守の過去作『天使のたまご』も彷彿とさせます。空に浮かぶ機械仕掛けの太陽と、天使のたまごを抱える少女。あの作品もまた、そのような遠くにあるものへの執着を描いていました。
また、卵は「シェル」でもあります。俗世の花の「ゴースト」は「シェル」の転生を願うわけですね。『イノセンス』における義体・サイボーグと人形は、自分以外のものに憧れる衆生の切なさを表現したものとも見えるわけです。
来生を
ここまで俗世の悲しみと天上への憧れを歌ってきた以上、この「来世」の文脈は明らかでしょう。自分以外の存在への転生。それは絶望と希望のちょうど境界線にあるものです。今の自分のありようが絶対ではないという、どこか離人的な雰囲気が感じられます。
統神に祈む
上の2首とも皇神、つまり皇祖神について詠んでいます。何を皇祖神と捉えるかには時代によって変化があるのですが、一般的に思い浮かぶのはアマテラスでしょう。歌詞が「かぎろひ」つまり朝日から始まっていることを考えても、あるいは『謡』が天岩戸をモチーフにしていることを考えても、ここで言及されているのがアマテラスであることは明らかでしょう。
以上の歌詞の流れをまとめると、次のような解釈が可能になります。
「黄泉の常闇の中で、怨恨みを抱えた衆生の花は、鳥の卵への転生を願いながら、アマテラスの朝日を待ち続けている。」
映画のイメージと合わせて、とても切ない印象を聞くものに与える歌詞だと言えるのではないでしょうか。
歌詞を再読する
以上の内容を踏まえて、もう一度歌詞を見返すことで、この記事を終えたいと思います。読む前と比べて、少しは歌詞の印象が変わったのではないでしょうか。もし、「ここを見落としているぞ」とか「この解釈は間違っているぞ」という部分があればご指摘をお願いいたします。ご精読ありがとうございました。
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